相手と相対したときにどこを見るか。
武蔵は、「ふたつの『みる』」を論じます。
その違いについて私には十分に理解できていませんが、「見」は普通に言う「見る」という概念に近く、「観」は、相手や状況の本質的・大局的な「把握」を意味しているように思います。
(P100より引用) 目の付けやうは、大きに広く付くる目也。観見二つの事、観の目つよく、見の目よわく、遠き所を近く見、ちかき所を遠く見る事、兵法の専也。
「見」の目に引きずられて、目先のこと細かいことに目を奪われてはならない、「観」の目で本質を捉えよとの教えです。
(P227より引用) とりわけて目をつけむとしては、まぎるゝ心ありて、兵法のやまひといふ物になるなり。・・・兵法の目付は、大形其人の心に付きたる眼也。観見二つの見やう、観の目つよくして敵の心を見、其場の位を見、大きに目を付けて、其戦のけいきを見、其をりふしの強弱を見て、まさしく勝つ事を得る事専也。大小兵法において、ちひさく目を付くる事なし。前にもしるすごとく、濃かにちひさく目を付くるによつて、大きなる事をとりわすれ、まよふ心出できて、慥なる勝をぬかすもの也。
大局的な「観」の目で掴むものは、たとえば、「拍子」です。
武蔵のいう「拍子」とは、共振するリズム・間合い・場の流れ・運命の浮沈の波・・・といったものを意味しているようです。
(P83より引用) 兵法の拍子において様々有る事也。・・・兵法の戦に、其敵其敵の拍子をしり、敵のおもひよらざる拍子をもつて、空の拍子を知恵の拍子より発して勝つ所也。
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