OMOI-KOMI - 我流の作法 -

For Ordinary Business People

合目的 (五輪書(宮本武蔵・鎌田茂雄))

2006-08-12 16:32:01 | 本と雑誌

Musashi  江戸初期の剣豪宮本武蔵(1584?~1645)による江戸時代の代表的な剣術/兵法の書です。

 内容は、武蔵自らあみ出した二刀流(二天一流)の奥義を簡潔丁寧に伝授したもので、密教で言う地・水・火・風・空の五輪で構成されています。
 全編、武蔵のたゆまぬ鍛錬と真剣勝負とで体得した実技、実践法が記されており、一切の無駄を排した「戦闘に勝つための徹底した合理性」が底流に認められます。

 たとえば、「構え」についてです。

(P119より引用) 有構無構といふは、太刀をかまゆるといふ事あるべき事にあらず。・・・構はありて構はなきといふ利也。先ず太刀をとつては、いづれにしてなりとも、敵をきるといふ心也。若し敵のきる太刀を受くる、はる、あたる、ねばる、さはるなどといふ事あれども、みな敵をきる縁なりと心得べし。

 また、「太刀の使い方」にも、多くの手を認めません。

(P222より引用) 先ずきる所の道なれば、数の多かるべき子細にあらず。・・・我兵法においては、身なりも心も直にして、敵をひずませ、ゆがませて、敵の心のねぢひねる所を勝つ事肝心也。能々吟味あるべし。

 本書によると、武蔵は13~29歳ごろまで、各地で60回以上の他流試合を行い、一度も負けなかったと言います。
 武蔵の最も有名な戦いは、1612年(慶長17)最後の試合といわれる船島(巌流(がんりゅう)島:山口県)での佐々木小次郎との一戦でしょう。小次郎が刀をぬいて鞘を海中に投げ捨てたところ、「小次郎、敗れたり」と武蔵が叫んだと言われる例の戦いです。

 その後、武蔵は、剣術の表舞台から姿を隠します。そして、再び1640年(寛永17)には熊本藩に客分として招かれるまでの間、武芸だけでなく、水墨画・彫刻・連歌・茶の湯も嗜み、広く諸学問を追究していきました。
 熊本藩にて、武蔵は、大組頭格となり家中に兵法を伝授しました。そして、1645年没するまでの間、「兵法三十五箇条」「五輪書」「独行道」を記したのです。

五輪書 五輪書
価格:¥ 903(税込)
発売日:1986-05

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長い論理 (国家の品格(藤原 正彦))

2006-08-11 20:10:59 | 本と雑誌

 先のコメントに続いて、次のなるほどは、「長い論理の危険性」についてのくだりです。

(P58より引用) 一般の世の中では、長い論理というのは非常に危険なのです。すべてのステップは灰色だから、小数のかけ算を何度もすることとなり、信憑性はどんどん下がっていきます。

 例として「風が吹けば桶屋が儲かる」話が示されていましたが、そのとおりです。
 ロジックとしては、それなりに因果関係が認められるものの、原因と結果が成立する「確率」を考慮すると、結果として最終結論(桶屋が儲かる確率)は極めて小さくなるというわけです。

 このように、数学者でもある著者一流の説明は、結構分かりやすく、的を得たものも多く見られます。

 もちろん、非常にハッキリした主張内容なので、私にとっては、その内容自体、100%首肯できるものではありませんでした。
(この本が、今でもなおベストセラーで残っているという現象の方により興味を惹かれます)
 本書自体、著者の講演記録に筆を加えたものとのことですから、十分な根拠データや反論を想定した重厚な理論武装を求めるのは無理だと思いますし・・・。

 ただ、1点、気になるところがありました。

(p13より引用) 産業革命の家元イギリスが七つの海を武力によって支配し、その後をアメリカが受け継いだ結果、いま世界中の子供たちが泣きながら英語を勉強している。侵略者の言葉を学ばなければ生きていけないのですから。
 もしも私の愛する日本が世界を征服していたら、今ごろ世界中の子供たちが泣きながら日本語を勉強していたはずです。まことに残念です。

 藤原氏は、この文で何を伝えたかったのでしょう。
 局所的にこの部分だけ採り上げるのはフェアでないかもしれません。ただ、私は、(申し訳ないのですが、)この一文で、藤原氏の立論に偏見を抱いてしまいました。
 残念です。

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国家の品格 (藤原 正彦)

2006-08-10 22:02:03 | 本と雑誌

 ふとっちょパパさんのBlogでも紹介されています。
 言わずもがなの大ベストセラーです。

 著者の主張は明確で、立論の構成もシンプルなので、際立って読みやすい本でした。
 (立論の根拠やロジックが十分に首肯できるか否かは別としてですが)

 「品格」云々の主張はともかく、私がなるほどと感じた部分をいくつかご紹介します。

 まずは、「論理の出発点」についてです。
 著者は、本書で幾つかの点で欧米批判を展開していますが、かといって、それらの国の主義主張における「論理性・合理性」を否定しているわけではありません。

(p95より引用) 論理とか合理を否定してはなりません。これはもちろん重要です。これまで申しましたのは、「それだけでは人間はやっていけない」ということです。何かを付加しなければならない。その付加すべきもの、論理の出発点を正しく選ぶために必要なもの、それが日本人の持つ美しい情緒や形である。それが私の意見です。
 論理とか合理を「剛」とするならば、情緒とか形は「柔」です。硬い構造と柔らかい構造を相携えて、はじめて人間の総合判断力は十全のものとなる、と思うのです。

 「論理的に正しい」ということと、その「結論が正しい」ということは、全く別のものです。
 (これは言われてみれば至極当たり前のことですが、しばしば短絡的な誤解や混乱を生み出します。)
 「論理は、出発点が異なると結論も異なる」、「出発点が間違っていると、論理が正しくても導かれる結論は誤ったものになる」、したがって、「出発点」の規定が最も大事だと主張しているのです。

(p149より引用) 欧米人のように「論理的にきちんとしていればよい」「筋道が立っていればよい」という考えは、今まで述べてきた通り、誤りです。万人の認める公理から出発する数学とは違い、俗世に万人の認める公理はありませんから、論理を展開するためには自ら出発点を定めることが必要で、これを選ぶ能力はその人の情緒や形にかかっています。・・・実社会では普通、誰の言うことも一応、論理的には筋が通っているものです。メチャクチャなことを言うのはよほどオカシイ人だけ。まあ、そういう人もけっこういますが、普通の人の言うことなら一応、論理的な筋だけは通っている。
 そうした「論理的に正しい」ものがゴロゴロある中から、どれを選ぶか。その能力がその人の総合判断力です。それにはいかに適切に出発点を選択できるか、が勝負です。別の言い方をすれば「情緒力」なのです。

 この「出発点」は「世界観/価値観」です。
 著者は、自己の世界観/価値観の根本に「情緒」や「惻隠」を置いています。これも一つの考えではあります。
(こういった「世界観」については、このBlogでも「無意識の世界観」とか「相対化」の項で触れたことがあります)

国家の品格 国家の品格
価格:¥ 714(税込)
発売日:2005-11

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進化ではなく循環

2006-08-09 00:52:06 | 本と雑誌

(マックス・ヴェーバー入門(山之内 靖))

 先にもご紹介しましたが、ヴェーバーは「カルヴィニズム」と「近代官僚制」との堅い連関を指摘しています。

(p90より引用) カルヴィニズム的信条は、一方で功利主義の哲学をもたらし、他方で近代的な意味での合理的な組織を生みだす。近代官僚制はカルヴィニズムに始まる意識改革を通して、はじめて合理的な効率性をもった組織として生まれてきた。組織論の上でも、被造物神化の拒否という命題はそういう意味をもった、とヴェーバーは言うのです。

 「官僚制」は対立階層の政治的自立性を抑圧していきます。そのメカニズムをヴェーバーは、ライトゥルギー(対国家奉仕義務)という概念を用いて立論しました。

(p196より引用) 現代社会もまた、ある種のライトゥルギー国家体制に移行しつつある。・・・ペルシャに対抗して質実剛健なポリス市民文化を守ったギリシャが、ヘレニズムのライトゥルギー体制へと収斂していったように、プロテスタント的禁欲の精神に燃えた西欧市民文化もまた、とどめがたい官僚制化とともに全面的秩序化とシステム化の軌道へと吸いこまれてゆこうとしている。西欧文化は、いな、人類は、古代帝国の国家社会主義と類似の体制にたどりつき、その安定してはいるが抑圧的なシステムの中で、死の静寂を迎えるのであろうか。

 ここにおいて、ライトゥルギー体制すなわち社会の官僚化による停滞・抑圧が、20世紀思想の中心問題として認識されます。
 歴史は、改善という一方向に「進化」しているのではなく、まさに歴史は繰り返すといわれるように「循環」していると考えられるのです。

 さらに、ヴェーバーは、この循環の中で、普遍的な合理化は、自己破壊に向かう運命的な力に向かっていることを指摘しています。

(p218より引用) キリスト教系譜の「現世内的禁欲」は、苦難の意味づけに始まりながら、結果としては意味の分裂ないし意味喪失の状態をもたらすことになりました。その意味で「現世内的禁欲」の方向は自己破壊的なエネルギーをその中に抱えこんでいたということ、これがヴェーバーが言おうとしたことなのです。

 ヴェーバーの合理化論は、決してヨーロッパ近代の可能性を賛美する方向を志向していなかったということです。

(p220より引用) ヴェーバーはキリスト教文化が内包する合理化の普遍性を一貫して強調したのです。そして、その普遍性にこそ恐るべき運命的な力が宿っていること、ここに警告を発していたのです。

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カルヴィニズムと業績主義

2006-08-08 00:12:51 | 本と雑誌

(マックス・ヴェーバー入門(山之内 靖))

 ヴェーバーの最も有名な著作といえば「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」です。
 この著作において、ヴェーバーは、「営利の追求を敵視する禁欲的な中世プロテスタンティズムの経済倫理が、実は近代資本主義の生誕に大きく貢献した」との立論をしているというのが通説です。

 山之内氏は、プロテスタンティズム、特にカルヴィニズムの影響に着目し、その「被造物神化の拒否」の姿勢が、近代の功利主義的・合理主義的組織体系を導出したとの論旨を紹介しています。

(p89より引用) カルヴィニズムは近代的な組織原理に大きく作用した、とヴェーバーは言います。・・・カルヴィニズムは徹底した被造物神化の拒否を通じ、個人の内面的孤立化をラディカルに進めました。・・・カルヴィニズム的信条をもった人々の場合には、・・・感情面を中心に組織がつくられるわけではない。被造物的なものに意味を認めることは一切排除されているわけだから、組織をつくってゆく場合、集合体としての目標は、功利主義的な意味での効率性を通して、社会の一般的な豊かさに貢献する以外には設定することができなくなっている。すなわち、数学的、物理学的に計算できるような意味での社会への貢献ということ以外にはもはや目標はなく、感覚的な領域で対人的に貢献するということには、意味が与えられなくなってしまった。

 さらに、この流れで、組織における価値観、すなわち評価のメルクマールが「業績」に移っていったというのです。

(p90より引用) こうして、この近代化された功利主義的社会組織の中では、アスクリプション(帰属主義)に代わってアチーヴメント(業績主義)が人々の評価基準になっていったのです。

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意図せざる結果

2006-08-06 15:43:21 | 本と雑誌

(マックス・ヴェーバー入門(山之内 靖))

 「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」におけるヴェーバーのひとつの主張は、以下のようなものです。

(p79より引用) 主観的に魂の救済を求めて、宗教的な救済へと向かっていく激しい情熱が、意図せざる形で客観的に、社会的・経済的・政治的な秩序の形成に向かっていく。そのズレこそが、人類のあらゆる歴史過程において重要な意味をもつ。

 「国富論」におけるアダム・スミスは、別のコンテクストで「意図せざる結果」に言及しています。

(p80より引用) 社会的な公共的善と秩序は、・・・道徳的意志の結果として初めて生まれるのではなく、むしろ、主観的には利己的な行為の「意図せざる結果」としてもたらされる。スミスが「見えざる手」の働きと述べたのは、まさしくこのことでした。

 しかしながら、同じく「意図せざる結果」を論点として取り上げながらも、両者の主張内容は大きく異なります。

 後者の代表選手としては、スミスに加え、ヘーゲルやマルクスをあげています。
 彼らの主張は以下のようなものです。

(p81より引用) スミスやヘーゲルやマルクスにとって、「意図せざる結果」という論理は、主観的な動機にかかわらず、あるいはイデオロギーとしての道徳性に関わりなしに、客観的な脈絡を主観の外側に生んでいく社会的メカニズムを捉えたものに他なりません。こうして、主観的世界の外側に生まれてくる客観的な過程を捉えるところに近代の社会科学が成立する・・・

 主観的立場から「意図せざる結果」であることは、主観に左右されない「客観的プロセス」が厳として存在するという考え方でしょう。
 主観的にどう思おうとその意図どおりにはならない、予めある結果が導きだされるように社会のメカニズムが稼働でしているという世界観です。
 まさに、国富論でアダム・スミスが示した立論-利己的に自分の利益の極大化を求めて起こす行動が、(意図せざる結果として)社会的な富の極大化という結果を達成してしまう-が分かりやすい例示です。

 他方、ヴェーバーの理解は対極的です。
 ヴェーバーは、(あえて簡略化して言えば、)文字通り「想定外の結果」を生ずるかもしれないという「運命性」を中心においていました。

(p81より引用) ヴェーバーが改革者たちの事業から生じた「予期せざる結果」「意図せざる結果」と言うときの脈絡は、近代社会科学の認識を可能にしたというような肯定的な意味をもつのではなく、まさしくそれとは逆に、人間の歴史の本源的な不確実性を示す運命性として語られています。

 ヴェーバーは、近代合理主義を万能なものとして支持したのではなく、むしろ運命性を前提をした「ペシミスティックなもの」として捉えていたのです。

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暗黙の前提

2006-08-05 18:21:57 | 本と雑誌

(マックス・ヴェーバー入門 (山之内 靖))

 西林克彦氏の「わかったつもり 読解力がつかない本当の原因」という本にも「ステレオタイプの当てはめの弊害」が指摘されていました。
 すなわち、過去の記憶・先入観等の「思い込み」や「受け入れやすい概念」が、ステレオタイプ的な「わかったつもり」の状態に誘導するとの仮説です。

 この本でも、従来からのヴェーバー研究の歪みの原因が、まさに同様の理由によるものとして説かれています。
 すなわち、著者の主張によると、ヴェーバーは「近代主義の批判者」であったにも関わらず、ある種のステレオタイプ的な立論により、多くの研究においては「近代主義者」であったとされているというのです。

(p54より引用) 読者には、近代世界に入って以降の人間の歴史を進化論的ないし弁証法的に、一定方向的な発展過程を歩むものとして理解してしまう解釈体系が暗黙のうちに前提されてしまっている。この前提があるために、ヴェーバーの作品について著者本来の意図とは異なったステロタイプ化されたスタンダードな解釈が成立してしまう。こうした不幸な歴史があったため、ヴェーバーの作品について、きわめて一面的な読み取りがなされてきた。

 本書は、従来の多数説・定説に対して一石を投じた挑戦の著作です。
 この本の論旨が正しいか否かは、従前の定説を理解していない私には判断できませんが、こういう思索の論争はその形式だけでも勉強になります。

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ヴェーバーの立ち位置 (マックス・ヴェーバー入門(山之内 靖))

2006-08-03 00:24:48 | 本と雑誌

Weber_1  ヴェーバーの社会科学に対する基本的姿勢は、純粋客観主義の否定でした。
 社会科学が人間に係るものである以上、また、人間の営みである歴史に存するものである以上、そういった対象・環境の制約を受けることを前提とすべきという立場です。

(p3より引用) しばしば誤解されてきたことですが、ヴェーバーの言う「価値自由」とは、社会科学にたずさわる人間は一切の価値判断にとらわれてはならず、ただひたすら客観的事実を追求すべきだ、といったものではまったくありません。そのような純粋客観主義は、むしろヴェーバーが排撃してやまないものでした。彼が論じたのは、社会科学のいかなる命題も、根本的には何らかの価値判断を前提とせざるを得ないということ、そしてこの点をはっきり自覚している必要があるということでした。純粋に客観的な立場などというものは、およそ歴史や文化をその研究対象のうちに含む社会科学においては存在しない。というのも、社会科学の営み自身が、特定の歴史的状況の内部におかれているからであり、特定の文化的時代環境の要請に対応するものだからである。

 この考え方は、同一の対象を扱っても、その価値判断基準が異なれば、そこから導き出される結果が異なるということを容認するものです。
 そういう学問の不確実性を正面から受け止めて学究に取り組むことをヴェーバーは求めています。

 このあたりの姿勢は、ヴェーバーの講演「職業としての学問」にも現れています。

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第一阿房列車 (内田 百閒)

2006-08-02 00:46:15 | 本と雑誌

 この本も、いつも参考にさせていただいている「ふとっちょパパ」さんのBlogで紹介されていたものです。

 内田百閒(ひゃくけん)氏は、本名 内田栄造、大正~昭和期の小説家・随筆家です。
 岡山市に生まれ、東京帝国大学独文科卒業。陸軍士官学校、海軍機関学校、法政大学でドイツ語教授を歴任した後、文筆活動に入りました。
 百鬼園(ひゃっきえん)と号し高校時代から俳句に親しみ、夏目漱石の門下生になって芥川竜之介・鈴木三重吉・森田草平らとも親交がありました。
 百閒氏は、詩と酒と琴を愛する風流人でありましたが、一方で、人と相いれない偏屈者でもあったということです。

 その百閒氏の著名な旅紀行文が、この「阿房列車」です。

 旅といっても、目的を定めぬ旅です。
 同行者は、国鉄の雑誌の編集者である「ヒマラヤ山系」(本名 平山三郎)氏。これが、すこぶるいいコンビです。

(p147より引用) 「今夜の晩餐に、甘木君を招待しようではないか」「はあ」「いいだろう」「多分来ないでしょう」「なぜ」「甘木さんは几帳面な人で、遠慮深くて、鬚面です」「鬚面がどうしたのだ」「それは鬚が濃いからですけれど、遠慮深くて、几帳面な人で、多分来ないでしょう」・・・
 暫らくして、もう一度持ち出した。
「はあ」と云って、考えた挙げ句に、「甘木さんが遠慮しなければ、招待して見ましょう」と云った。
「貴君、それは無理だぜ」
「なぜです」
「招待を受ける前に遠慮するのは困難だ」
 山系は、私がそう云う事を云うと、いつまでも返事をしない。

 万事、こういうやりとりです。
 他方、百閒氏一流のシニカルな言い回しもまたありです。

(p168より引用) 夜が明けた。
 明ける所を見たわけではない。目がさめたら昨日の昼間の通りになっていただけの話である。

 旅館の池の蛙すらも、氏の毒舌の対象になります。

(p190より引用) 全く変な、馬鹿な声がしたと思ったら食用蛙である。よくもあんな下らない声が出せるものだと思う。

 食用蛙からしたら、大きなお世話です。

 あと、蛇足ですが、恥ずかしながら、百閒氏は同郷のはるか大先輩にあたることを、この本で知りました。
 「鹿児島阿房列車」での岡山あたりの記述は、今でも変わっていないところが多く、風景が目に浮びますね。(このところは、数年に1度ぐらいしか帰らないのですが・・・)

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