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For Ordinary Business People

職場はなぜ壊れるのか-産業医が見た人間関係の病理 (荒井 千暁)

2007-07-07 14:29:02 | 本と雑誌

 以前、荒井千暁氏の本は「こんな上司が部下を追いつめる」を読みました。
 そちらは、産業医の立場で、最近の企業で増加しつつあるメンタル疾患の現状と対応策を明らかにした著作でした。

 今回の本で、荒井氏は、「『成果主義』がメンタルヘルス疾患の原因のひとつである」という自身の仮説を、いろいろな職場の実態をおさえつつ検証していきます。
 事例は、勤務医であるだけにリアリティがあります。

 荒井氏は、「個人ベースの成果主義」に大きな疑念を抱いています。
 ただ、成果ベースの評価を全否定しているわけではありません。

(p166より引用) チーム単位での職場環境がしっかりしていれば、仮に裁量労働制が敷かれたとしても能力はたぶん発揮されます。・・・
 上司や同僚たちによるチームワークは最大の「基軸」です。成果主義をリンクさせたいのであれば、成功した場合の評価や報酬は参画した全員に対してほぼ均等にするのが本筋でしょうし、相応でしょう。そうなると恐らく、能動的意思に基づく行為の積み重ねが生じてくるはずです。チームの総和として大きな花がいくつ開いてもおかしくないでしょう。

 荒井氏によると、「成果主義」の導入は、日本企業の職場実態や日本人のメンタリティ等を踏まえた場合、実際の運用に耐えられない、むしろ大きな弊害を生じさせていると考えています。

(p167より引用) ありていにいえば自分だけ、あるいは自職場だけの目標なり役割に終始するという自己完結型・自己満足型の陥穽に陥っている-それが成果主義の実像ではないでしょうか。

 そのほか、メンタルヘルス疾患の実態に関して気になったのが「ハインリッヒの法則」についての記述です。

(p115より引用) 1件の重大災害(死亡や重症)が発生した場合、その背景には29件の軽症事故とともに、300件のヒヤリ・ハットがある。

 もしメンタルヘルス疾患で休職している方を「重大災害」に位置づけると、私のいる職場では、ほぼ全員に「軽症事故」が発生していることになってしまいます。
 「成果主義」や「能力主義」が強烈に導入されているわけでもないので、本当に悩ましく思っています。ともかく、なんとかしなくてはなりません。

(p91より引用) 無事復帰を果たして安定状態に移行した人は、婉曲であっても、やがて自らのことを語ってくれるようになります。部下たちがいずれ上司として役職を与えられたとき、記憶の奥深くに刻みこまれた復帰者の経験談は、何ものにも代えがたい財産になっていることでしょう。

 しかし、こういう先人は絶対に増やしてはならないのです。

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発売日:2007-02

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シェイクスピアと文豪 (シェイクスピアの人間学(小田島 雄志))

2007-07-06 23:26:05 | 本と雑誌

Shakespeare_in_the_park  本書で、小田島氏は、ゲーテやトルストイのシェイクスピア評を紹介しています。
 これがなかなか面白いものです。

 ゲーテは、シェイクスピアを非常に高く評価しています。

(p78より引用) 「人間のモティーフというモティーフを、彼は一つ残らず描き、表現しつくしている。しかも、すべてが、なんと言う軽やかさ、何という自由さに満ちていることだろう!」

 小田島氏も、ゲーテのシェイクスピアの理解に対して、その指摘の的確さに賛辞を送っています。

 他方、トルストイです。
 彼は19世紀リアリズムの立場からシェイクスピアを評価します。それは、明らかに否定的評価です。

(p89より引用) 「人物が全く随意に置かれているこれらの立場はあまり不自然なので、読者や観客はそれらの人物の苦しみに同情することができないばかりでなく、読んでいる物、見ている物に対して興味も起こすことさえできなくなる。・・・」

 トルストイのシェイクスピア批判はさらに続きます。

(p90より引用) この悲劇でもシェークスピヤの他の悲劇でもすべての人物が全く時と場所にふさわしくないような生き方、考え方、言い方、動き方をしているということである。

 これに対して、シェイクスピアのセールスマンを自任する小田島氏は、こう反論しています。

(p90より引用) 私に言わせると、トルストイの批判は、絵に描いた餅を見て、「これは食えない」と文句をつけているのと同じような気がします。芝居は歴史の教科書ではないのだから、作者が「随意」に人物を配置するのは当然だし、古代ブリテンに王とか貴族とかが出てきて近代英語・・・をしゃべるのはおかしい、と言うほうがおかしいのではないでしょうか。

 ゲーテもこう言っています。

(p84より引用) 「シェークスピアの人物もまたシェークスピアの魂の何らかの意味での分身なのだ。これは正しいことだし、またそうしなければいけない。それどころか、シェークスピアは、さらに筆をすすめて、ローマ人をイギリス人に仕立ててしまっているが、これもまた正しいのだ。というのも、そうしなければ、国民は彼を理解しなかっただろう」

 小田島氏の本の中では、どうもトルストイは分が悪いようです。

シェイクスピアの人間学 シェイクスピアの人間学
価格:¥ 1,575(税込)
発売日:2007-04

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シェイクスピアの視座 (シェイクスピアの人間学(小田島 雄志))

2007-07-04 01:20:19 | 本と雑誌

Shakespeare  今から30年程前、学生時代に小田島先生の講義を受講しました。
 穏やかで親近感溢れる話し振りが、今でも強く記憶に残っています。

 さて、本書にて小田島氏は、シェイクスピアの生い立ちや彼の数々の作品(そのストーリーや登場人物の台詞等)から「シェイクスピアの人間観」を明らかにしていきます。

(p12より引用) 私がシェイクスピアの人間観という場合に、よく言うのは一歩引いて見る目の達人だということです。・・・
 シェイクスピアは、人間を描くとき、どういう視点から見ているかというと、必ずその人間関係のなかで見ています。・・・
 ・・・例えば親子の関係で見るときに、・・・どちらか一方の立場では見ていません。親と子の両方の立場から見ているのです。なぜ両方から見られるかというと、一歩引いて見ているからです。

 小田島氏によると、この「一歩引く」というのが、シェイクスピアのいう「道化の目」だといいます。

(p16より引用) シェイクスピアの道化の目で見れば隠れた真実が分かり、ものごとが二重三重にふくらんできます。実生活においても、一歩引いて見ると、どちらが善悪と言い切れないものがある。私は自分でも、なにものにもとらわれないで見る自由な目を身につけたいと思っています。シェイクスピアがその達人です。

 「道化の目」は外からの目です。
 外からの目には先入観がありません。無制限の視線です。ありえないと思うようなこともお構いなしです。

 小田島氏は、この「道化の目」の効用をこんなふうに語ります。

(p21より引用) 判断保留、つまりこんなことあり得るわけがないと、直ぐに決めてしまうのではなくて、その判断を保留することが〈もしも〉の大事な例です。あり得ないことだって、もしもあり得たらどうなるのかと想像し、だめだという判断を保留して、簡単に絶望するのではなく、「もしもだめじゃなければ」と考えてみる。みんながそういう想像力をもったら、どんな親子でも仲良くなるし、この世から戦争が消えるだろうということをまじめに考えてしまいます。

 「自由な目」は、ひとつの型を求めません。
 人それぞれいろいろな人がいていいじゃないか、また、ひとりの人があるときにはこう思い、また、あるときにはそれと矛盾する行動をとることだってあるじゃないか。
 シェイクスピアは、人間の多面性に肯定的です。

 シェイクスピアが活躍したころ、16世紀のイギリスは、「国教会」が設立される等キリスト教を取りまく環境が激変し、それと相まって、王室の交代に代表される政治環境も、非常に複雑な状態にありました。
 そういった社会背景を踏まえて初めて、シェイクスピア演劇のメッセージ性の特徴が理解されるのです。

(p52より引用) とくに共同制作する演劇の世界では、いろんな思想をもっている人が入っています。政治・宗教的な論争があるところで、その争いに巻き込まれて死んだ人もたくさんいました。その中をシェイクスピアは生き抜いてきました。人間万歳を言いながら、だからといって人間としてこう生きるべきだとは言っていません。人間とはこのように喜んだり、悲しんだりする存在だということは言うが、こうすべきというのはありません。

 本書の最後に、シェイクスピア研究をライフワークとしている小田島氏はこう語ります。

(p173より引用) シェイクスピアには、以上見てきたように、何ものにもとらわれずに、一歩引いて、総体的に人間を、人生を、世界を見る目を感じさせる台詞が数多くあります。半世紀以上を彼とつきあってきた私も、まだまだ彼を卒業していないようです。

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発売日:2007-04

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コンサルタントの危ない流儀 (デイヴィド・クレイグ)

2007-07-02 20:31:52 | 本と雑誌

 複数のコンサルティング会社に勤めた経験のある著者が、自らの実体験をもとにコンサルタントの実像・虚像を綴った著作です。
 サブタイトル(「集金マシーンの赤裸々な内幕を語る」)どおりの内容でした。

 著者が所属していたコンサルティング会社のトップマネジメントの内輪話はともかく、コンサルティングサービスを受けるクライアント企業側の問題は、これこそよく指摘されているところです。
 本書でも、至るところで登場します。

(p114より引用) スタッフにやる気と能力があり、与えられる指示も適切なら、組織構造なんていくら不細工でも、きちんと機能するものなのである。一方、やる気もなく、指示もいいかげんで、能力もないスタッフの手にかかれば、どんなに賢いコンサルタントが素晴らしい組織構造を作ってあげたところで、ろくな仕事はできない。

 最近は少なくなっているとは思いますが、マネジメントの丸投げは言わずもがなです。

(p177より引用) そもそも企業をちゃんと運営するなんてことは経営者としての彼ら自身の仕事なのであり、彼ら自身がその給料にふさわしい仕事さえしていれば、コンサルタントに何百万も払って自分の仕事を肩代わりさせる必要などないのである。

 さらに、

(p225より引用) 要するに筆者の経験からして、優秀な経営陣は自ら経営する。コンサルタントを雇うのはまれで、しかも、特定の目的のみにかぎられている。一方、問題のある経営陣はしょっちゅうコンサルタントを雇い、それに頼り過ぎるのである。

 もちろん、クライアント企業とWin-Winの関係で終了したプロジェクトも少なからずあったようです。
 そういった「成功例」に共通しているのは、「目的が明確な限定プロジェクト」だったということです。

(p206より引用) もちろん、中には参加できたことを心から誇りに思う大成功もあった。そういう企業は、特定の業務の遂行のために一定期間だけコンサルタントを雇い、その終了と共にコンサルタントを退去させることが多かった。

 私自身もここ10年ほど、BPRやIT案件、ヒューマンリソースマネジメント案件等でコンサルティング会社とお付き合いしています。

 著者の以下のコメントは、気にしているつもりではありますが、常に意識して思い起こさなくてはなりません。

(p273より引用) もしもコンサルタントが本当に優秀なら、彼らはクライアントの重大な問題解決に協力して、それで終わりである。あるコンサルタント会社がクライアントのところに長くいればいるほど、コンサルタントはその会社に「現地化」し、その会社の考え方や仕事の仕方を身につける。そして、コンサルタントがクライアントに似てくればくるほど、新しい刺激的なアイデアを持って来れなくなる。コンサルタント会社が長く居座れば居座るほど、クライアントの経営陣はコンサルタントに頼るようになり、重要な決断はコンサルタント任せとなる。

 とはいえ、私の周りには、知恵を絞り体を酷使して、クライアントのためにいい仕事をしようとしているコンサルタントの方がたくさんいます。

 クライアント側の「思い入れの強さ」が、プロジェクトの成否のカギを握っているのです。

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社会学の根本概念 (マックス・ヴェーバー)

2007-07-01 17:19:51 | 本と雑誌

Weber_2  ほとんど理解できないのですが、(懲りもせず)ときどきこの手の本を読んでみようという気になります。

 本書は、清水幾太郎氏の訳によるマックス・ヴェーバー(1864‐1920)の晩年の著作です。
 社会的行為や社会的関係といった社会学上の種々の諸概念の「定義」を明らかにした短い論文で、ヴェーバー社会学を理解するうえでの基本的な素養となるものです。

 記述は、このような感じで進んでいきます。

(p86より引用) 「権力」とは、或る社会的関係の内部で抵抗を排してまで自己の意志を貫徹するすべての可能性を意味し、この可能性が何に基づくかは問うところではない。
 「支配」とは、或る内容の命令を下した場合、特定の人々の服従が得られる可能性を指す。
 「規律」とは、或る内容の命令を下した場合、習慣的態度によって、特定の多数者の敏速な自動的機械的な服従が得られる可能性を指す。

 このあたりは、「なるほど」と思うのですが、「政治団体」や「国家」についての定義は「、「そうかな?」という感じがします。

(p88より引用) 或る地域内における支配団体の存立とその秩序の効力とが、行政スタッフによる物理的強制の使用および威嚇によって永続的に保証されている限りにおいて、この支配団体は「政治団体」と呼ばれる。政治的強制団体の経営は、その行政スタッフが秩序の実施のための正当な物理的強制の独占を有効に要求する限りにおいて、「国家」と呼ばれる。

 「政治力」の源泉は「物理的な力」でしょうか?
 もちろんone of themだとは思いますが、それ以外の「力(≒何がしかの影響力)」に拠る「政治力」は存在します。(もちろん、このあたりヴェーバーは百も承知でしょうが)

 本書は、全体としてひとつのテーマに貫かれたものではありません。
 いくつもの概念の定義が列挙されているので、前後の論旨を追って内容を理解しようとしても、正直難しいものがありました。

 そうはいっても、私としてある程度納得感があったのは、「社会的行為を理解する方法」のくだりです。

(p11より引用) 類型構成的な科学的考察においては、行動の非合理的感情的な意味連関が行為に影響を及ぼす場合、すべてこういう意味連関は、先ず、行為の純粋目的合理的過程を観念的に構成した上で、それらの偏向として研究し叙述すると非常に明瞭になる。例えば、、株式恐慌を説明するのには、先ず、非合理的感情の影響のなかった場合に想像される行為の過程を明らかにし、次に、非合理的要素を攪乱要因として導入するのが便利である。・・・右のような場合、純粋目的合理的行為には明確な理解可能性と合理性に基づく明白性とがあるため、純粋目的合理的行為を観念的に構成することは、類型(「理想型」)として社会学に役立ち、感情や錯誤など、あらゆる非合理性の影響を蒙る現実の行為を、純粋合理的行動に期待される過程からの偏向として理解させるものである。

 ヴェーバーは、まず「純粋目的合理的過程」を概念的に規定して、それとの差分として「非合理的な要素」を位置づけると全体の連関が明確になると説いているようです。

 「まず基本形を固めて、そのうえで個別要因を位置づけて全体を理解する」という考え方でしょうか。

社会学の根本概念 社会学の根本概念
価格:¥ 420(税込)
発売日:1972-01

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