ことの葉散歩道(8)
膨大な時間を生きる
人生はつづいていく。暦には昨日と今日と明日に線が引かれているが人生には過去と現在と未来の分け隔てはない。誰もが、たった一人で抱えきれないほど膨大な時間を抱えて、生きて、死ぬ……。 ※ 出典不明 |
出典をメモすることを忘れてしまった。
反故にしがたい内容だ。
誰がどこで言った言葉なのか。
あるいはどんな小説のどんな場面で書かれた言葉なのか、今となっては解らない。
しかし、ずっと心の内に沈んで気になっていた。
明治36年「人生不可解なり」という遺書を残して日光・華厳の滝から身を投げた藤村操は16歳の旧制一高生だった。遺書「厳頭ノ感」は今に伝わる。多感な少年時代を苦悩し、死ぬことによって結論を出した藤村の人生も、「たった一人で抱えきれないほど膨大な時間を抱えて、生きて、死ぬ……」ということだったのか。
私たちは「過去」を切り離して、あるいは「過去」と無関係に生きていくことはできない。
「過去」はその人の生きた証であり、今を生きる自分に何らかの形で影響を与えている。
背中に張り付いた見えない「過去」に、時によっては背中を押され、或いは逃げ腰になったりしながら、現在を生きる。
人生道に橋があるなら、私たちは過去から現在に架かる橋を渡り、
現在を生きることによって、未来への架け橋を渡っていくことになる。
生きている限り未来へ到達することはできないし、やがて見えてくるのは終着点の「死」だ。
何歳で人生を終わろうと、人は自分の生きた「膨大な時間」を、時の列車に乗って粛々と生きていくほかない。
悪人であろうと善人であろうと、死は等しく訪れる。
生後10日で津波にさらわれ、3日後に遺体となって帰ってきた赤ちゃん。
仏教に「天命」という言葉があるが、遺された遺族はなかなか認めがたく、悲しい死もある。
無常の風にじっと耐えなければならない時もある。生きて天命を待つ。