時流に流されず、
言葉を噛みしめ
自分に正直に、
嫌なものは嫌だと言える様な道を歩みたい。
なかなか難しいけど……
年頭の挨拶を、年賀状の中に上記のようにしたため、自分への戒めとしました。
何分、タガが外れてしまうと、易きに流れていってしまうので、
少しきついタガをはめました。
「流される」 時流に流される。 雰囲気に飲まれる。付和雷同。
あまりにも流されることの多い日常です。
12/31付のブログ「流されていく… このまま流されたくはない」にも書きましたが、
社会全体が「何とかなるさ」とつぶやきながら、流されて行ってしまう気がしてなりません。
「流されない」視点を保ちながら、自分の考えはきちんと伝える努力をしなければ、
将来の社会に責任を持つ社会を作ることはできない。
私ひとりが、声高に叫んでみても、何も変わらないかもしれません。
でも、ぶれない視線で社会を見つめる人が一人でも多くなれば、
社会を包む雰囲気はだんだん変わっていくではないか。
成熟社会の上に、どっかり胡坐をかいてしまえば、
成熟は爛熟へと進みやがて退廃そして消滅へと進んでいくことは、
歴史が証明しています。
「社会全体は絶えず成長を続ける」
成長が停止した時、社会は混乱の波にのまれてしまうといわれていますが、
私には、社会の成長がどこまで続くのかわかりません。
成長の過程で、緊縮、減少社会があってもいいような気がしています。
『緩やかにトーンダウン』する社会があってもいいのではないかと言う思いもどこかにあります。
私たちの社会はあまりにも早いスピードで成長してきたような気がします。
社会を牽引していく『幸福号』は、多くの人に幸せ感を振りまき、
一見豊かで明るい未来に向かって進んでいくように見えます。
でも、小さな幸せを作って来た核家族は、
その昔家族が持っていたたくさんの家族機能を喪失してきました。
結果、人と人のつながりが薄れ、格差社会が生まれました。
人口減少社会、少子高齢社会、労働問題、保育問題、貧困の連鎖、原発問題、積極的平和主義。
どれをとっても、一朝一夕には解決できない問題が山積しています。
これらの問題は、政治がもう少し前を見据えた政策を展開していれば、
回避できた問題もたくさんあるようです。
与党も野党も、そして多くの国民もあまりに今そこにある効率と利益を求めすぎたきらいがあります。
私たちはぶれない視点で、揺るぎのない社会を作ることに協力もするし、我慢だってできるのです。
「和して同ぜず」(論語)
人の意見をよく聞き、理解をするが、自分の意志もまた大事にする。
社会の一人ひとりが、心がければ、「住みよい社会」は実現可能ではないだろうか。
念頭に当たり、穏やかな正月を迎え、
「流されない」想いを述べてみました。
(2017.01.08記)