雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

死顔 最後のお別れ①

2018-12-18 08:30:00 | つれづれに……

 
死 顔
   最後のお別れ ①

        
         通夜の席で遺族から死顔を見て欲しいといわれた時には、
        堪えられませんので……と言って辞退することにしている。

    おおむね病み衰えての死であり、
        その死顔を眼にするのは死者への冒涜ではないか、という思いがある。

    また、無抵抗に人の目にさらしている死顔を一方的に見るのは
    僭越だという気持ちもある。

                                   ※ 花 火 吉村昭著

     棺の中の死者は、多かれ少なかれ病み衰えていて、
   それを眼にするのは礼を失しているように思える。
   死者も望むことではないだろうし、
   しかし、抵抗することもできず死顔を人の眼にさらす。

                                   ※死 顔 吉村昭著

   「死」をもって、その人の一生が終わるわけではない。
死後の世界を信じているわけではないが、
人は死んでもその人のゆかりの人々の心の内で生きている。

 余談ではあるが、心臓が止まっても、聴覚は最後まで機能しているらしい。

 「死」を迎えた瞬間から、一個の物体となるわけではない。
心臓が止まると、全ての臓器がその機能を停止していく。
血流も止まる。
臨終を宣告されてもしばらく体は温かい。
この時、聴覚だけは生きているらしい。

 すすり泣く声、死者に向かって語りかける声。
死者を取りまく声を、死者は横たえた体で、聞いている。
理解はするが、答えることはできない。
答えることはできないけれど、「こころ」は生きている。

語りかける。
思いをこめて頬を撫でる。
物言わぬ人のなみだがほほをつたってひとすじ流れる。
寝たきりで、延命措置で行かされている人でも、聴覚だけは生きているから、
感謝の言葉の代わりに、涙を一筋流す。
たった一つの意思伝達の方法だ。

死後、どのくらいの時間聴覚が機能しているのかは解らない。
徐々に声が遠ざかり、闇が深くなり、音が閉ざされる。
魂の離脱するときだ。

徐々に体が冷えてくる。
彼岸への旅立ちの時が訪れる。
…………………    
           (つづく)

        (2018.12.18記) (つれづれに……心もよう№84)

  (メモ№1351)

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