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読書案内「帰艦セズ」吉村 昭著 ②新しい事実 

2023-10-14 06:30:00 | 読書案内

読書案内「帰艦セズ」吉村 昭著 ②新しい事実 
 調査が進むにつれ次のことが分かった。
乗船していた軍艦は「阿武隈」で、事件当時北海道小樽港に碇泊。
記録は「昭和十九年七月二十二日〇〇四五ヨリ七月二十三日〇六一五マデ」の上陸許可を申請し、
下船を認められる。 

成瀬機関兵は旅館に一泊し翌早朝帰艦するため旅館を出たが、

官給品の弁当箱を忘れたことに気付き、狂ったように旅館を探し回ったのに違いない。帰艦時刻が迫り、商店の者に懇願して自転車を借り、桟橋に向かってペダルを踏んだ。館に戻ったかれは、弁当箱を持たずに帰ったことを報告、激しく叱責されて官紛失の、罪の重大さを知り、再び上陸した。が、それを探すことができず、そまま桟橋に足を向けることをしなかった。

 調査員の橋爪は、官品の弁当箱を紛失したまま帰還した場合の想像される過酷な制裁と処罰に恐怖を抱き、帰艦の気持ちもすっかり萎えてしまったのだろう、と想像する。
兵員死亡報告書には『死因………自殺セルモノト認ム』とある。

また、「変死状態ノ概要」によると、
「小樽港碇泊中ノ軍艦阿武隈ヨリ逃走 前記ノ場所ニ於テ自殺ヲ遂ゲ 其ノ後死体ハ風雪ニ晒サレアリタルモノト推定セラ」るとある。

 出航時間までに帰艦できなかった状況を、公文書は「逃走」と位置づけている。
 遺骨とともに届いた戦死報告は戦死ではなく「飢餓ニヨル衰弱死」とあったから、
 遺族は、機関兵の息子の不可解な死を容認することができずに、戦後三十数年を経てなお、
 調査員の橋爪が電話した時、「生きているのですか?」と、期待に胸躍らしたのだ。

 「飢餓ニヨル衰弱死」が軍艦から逃走し自殺をしたと、兵員死亡報告書は伝える。
 官給品の弁当箱を紛失し、処罰を恐れ逃走した機関兵は小樽市の山中で自殺したことになる。

 「逃亡したあげくに自殺」という不名誉な息子の死に、年老いた母の胸中を思えば、
 隠れていた真実を掘り起こし、遺族に伝えることが果たして良いことなのかどうか。
 週刊誌の記事のように、相手のスキャンダルを暴き、
 個人のプライバシーを白日の下にさらけ出してしまうことに、
 ある種の後ろめたい思いをするに違いない。
 さらに、「有名人にプライバシーはない」などと言う。
 ジャーナリストである前に、人間であれ。
 人間として品性を欠くような記事は許されない。
 
  多くの記録文学を上梓してきた吉村氏は、
 個人の秘密を白日の下に晒さなければならなくなった時、
 遺族の承諾を得られず、書いた原稿を反故にしたこともあったに違いない。
 小説とはいえ、不用意に真実を発表すれば、
 関係者の人間関係をぎこちなくし、心の平安を乱すことになってしまう。

  
事実を歪曲するのではなく、事実を冷静に見つめながら
 「優しさ」というスパイスを振りかけることが必要ではないか。
 他人の過去に踏み込むことに
ためらいを覚えるときがあるのは、人として当然なことと思う。
 文章にされた事実は、時には凶器となって対象者の人生を狂わしてしまうこともある。
 事実であれば、何を書いてもよいというわけではない。
 書いたものに責任を持ち、節度を持つことが必要だ。

 官給品である弁当箱を紛失し
たことから、機関兵は乗っていた巡洋艦に戻れず、
「逃亡兵」の烙印を押される。山中に隠れ住み、ひとり飢えて死んだ。
自殺ではない。公文書に残る「餓死ニヨル心臓衰弱死」は、正しかったわけだが、
公文書の裏に隠れた真実を吉村氏は追及し、無残で悲しい事実を追及する。

 調査員橋爪の口を借りて吉村氏は次のように語らせている。

 一人の海軍機関兵の死因を探るため調査をしたが、それは結果的に遺族の悲しみをいやすどころか、新たな苦痛を与えている。三十数年の歳月を経てようやく得られた一人の水兵の死の安らぎを、かき乱してしまったような罪の意識に似たものを感じていた。

 物語の最後。橋爪は機関兵が白骨となって発見された現場を訪れる。
現場は、眼下に港が見下ろせ、海洋の広がりも一望にできる高台にあった。
長い引用になるが最後を締める大切な箇所なので、ネタバレついでに紹介します。

不意に、一つの情景が(橋爪の)胸の中に浮かんだ。
水兵服をつけた若い男が、灌木のかたわらに膝をついて港を見下ろしている。
巡洋艦「阿武隈」が、
煙突から淡い煙を漂わせ、白い航跡を引いて港外に向かって動いてゆく。
彼の胸には、様々な思いが激しく交錯していたのだろう。
弁当箱を見つけることができずこの地にのがれたが、
その間艦にもどろうという思いと、もどれぬという気持ちが入り乱れ、
何度も山を下りかけたに違いない。
 五日間が経過し、彼はこの場で「阿武隈」が出港していくのを見下ろした。
叱責とそれに伴う過酷な制裁を恐れてこの地へ逃れたことを、どのように考えていたのだろうか。

 艦は港外へと向かっていて、すでに戻ることは不可能になった。
かれは、自らが逃亡兵の身となり、
両親をはじめ家族が、軍と警察の厳しい取り調べをうけ、
周囲の侮蔑にみちた眼にかこまれることに恐怖を抱いていたに違いない。
かれは、艦が港を離れ、外洋を遠く去っていくのを、身を震わせながら見送っていたのだろう。


 一切の感情をそぎ落とし、簡単明瞭に事実に基ずいて作成された死亡通知にかくされた、
機関兵の餓死に至る心象を見事に表現している。
物語の最後にふさわしい文章だ。
無味乾燥な死亡通知書から掘り起こされた機関兵の心象と、
調査員橋爪の心象が見事に表現されている。

 さらに、この心象風景は、作者・吉村昭氏の優しさと、節度ある姿勢と一致する。
ノンフィクションや記録文学では、三十数年前に、官給品の弁当箱を紛失して、帰艦のタイミングを逃して、逃亡兵として死んでいった機関兵の白骨が散らばった丘に立つ調査員・橋爪が外洋に広がる港を眼下に見下ろすシーンで幕を引いてもおかしくない。

 読者が最後の文章を読むことによって、「帰艦」できなかった機関兵の悲しみと不幸に感情移入できることを吉村氏は十分に計算している。
これが吉村氏の優しさと、節度である。

 文春文庫版の「帰艦セズ」の本の表紙の写真を見てほしい。
眼下に広がる外洋に向けて、「阿武隈」が出港していく。
高台に立った機関兵が見た光景だ。
機関兵の悲しみと絶望が画面いっぱいに漂っている。
心憎い装丁だ。

 官給品のアルマイトの弁当箱を紛失したために、死んでいく男の悲劇が読者の心をとらえる。
                                       (終わり)
(読書案内№190)    (2023.10.13記)

 

 

 

 

 

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