忘れないよ ユカちゃんのこと
また来ん春……
また来ん春と人は云ふ
しかし私は辛いのだ
春が来たって何になろ
あの子が返って来るぢゃない
おもへば今年の5月には
おまへを抱いて動物園
象を見せても猫(にゃあ)といひ
鳥を見せても猫(にゃあ)だった
最後に見せた鹿だけは
角によっぽど惹かれてか
何とも云はず 眺めてた
ほんにおまえもあの時は
この世の光のたゞ中に
立って眺めてゐたっけが……
中原中也「在りし日の歌」より
中原中也の詩集は、生前に彼が刊行した『山羊の歌』と『在りし日の歌』だけである。
本書の冒頭には「亡き児文也の霊に捧ぐ」とある。
中原の愛児・文也は1934年10月に生まれた。詩集『山羊の歌』が刊行される2か月前のことである。
中也の喜びもつかの間、『在りし日の歌』が編集・清書される10ケ月前に病気で急逝する。
2歳と1ケ月の短すぎる命だった。
中也の悲しみが詩集「在りし日の歌」の冒頭に「亡き児文也の霊に捧ぐ」と
挿入したのも、中也の深い悲しみが感じられ、その心中を思えば痛々しい。
このことが中原の過敏な神経をいためつけた。
神経衰弱に結核性脳膜炎を併発し、
1935年文也が亡くなった1年後に文也の後を追うように逝ってしまった。
享年30歳。
早すぎる死であった。
「在りし日の歌」の原稿は親友・小林秀雄の手に託され1938年創元社より刊行された。
中也没後三年後のことである。
かけがいのない人を喪うこと、
愛しい人を喪うことは、
辛く果てしのない悲しみを引きずって、
苦しい人生行路を歩んでいくことになる。
「時が過ぎれば、また春がめぐってくるよ」。
一見、優しい言葉のように思われるが、
当事者にとっては部外者の心無い慰めにしか聞こえない。
黙って見守り寄り添うことが、
暖かい掌で傷ついた部分をそっと包んでくれる人がいれば、
人は立ち直ることができます。
この詩を紹介した遠藤豊吉氏は、編者の言葉として
次のような言葉を載せています。
生徒を愛する教師の気持ちが読む者の心を捉えます。
二学期がはじまった九月一日。ユカちゃんという女の子が無人踏切で電車に触れて死んだ。
上りと下りの電車のすれちがいに気づかず、一方の電車が通りすぎたとき、飛び出したのだ。
美しい死に顔だったという。
担任の先生は、その日から二か月ほどの間、げっそりとやせ、ほとんどものも言わずに、ぼ
うっと日を送ることが多かった。まわりがいくらなぐさめても「ユカちゃん、まだ夢に出てく
るもんな」と言って目をうるませるのだった。
そのできごとがあってから、何年もの間、A先生は九月一日が近づくと、ゆううつになってく
るのだった。その九月一日が無事にすぎると、かれはわたしに言ったものだった。「遠藤さん、
あの事故にあわなければ、ユカちゃんは、いま○年生だな。」
やがて、中央線は高架になった。わたしたちは地上から五メートルも高いところを走る電車を
見ながら「ああ、子どもの鉄道事故もなくなる」と話し合ったものであるが、A先生はそのつど
「でも、ユカちゃんはもどってこない」と、ことぱ少なに、そうつぶやくのだった。
「でも、ユカちゃんはもどってこない」。
この最後のフレーズに、A先生の悲しみが続いていることが読者に伝わってきます。
そして、A先生の孤独と無常感が表れているようにわたくしは思うのです。
(つれずれに……心もよう№100) (2020.4.6記)
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