白旗の少女 白旗を掲げ投降する少女・比嘉富子さんの証言(1)
この原稿は私のブログ「白旗の少女」の
(1)沖縄戦 家族を失い投降(2015.8.5)
(2)二枚目の写真の真相(2015.8.6)
(3)少女が見た地獄(2015.8.16)
(4)老人夫婦との出会い(2015.8.19)掲載の記事を再編集し、
「太平洋戦争を記録する講演会」(2017.08.06)にて発表した原稿である。
白旗の少女
1945(昭和20)年6月25日に米陸軍戦闘カメラマンの
ジョン・ヘンドリクソンにより撮影された比嘉(当時は松川)富子。
当時6~7歳の少女がたった一人で、
沖縄戦末期の戦場を45日間にわたってさまよった
記禄である。
木の枝に、老夫婦が褌(ふんどし)を裂いて巻きつけた旗を掲げて投降する。
当時、6、7歳のあどけない少女の決死の投降場面だ。
兄の遺体を埋め、姉たちとははぐれてしまった。
死体だらけの川の水を飲みながら生き延びた少女。
「地獄に行ったことはないけど、もし地獄があるとするならば、きっとあれが地獄なのでしょうね」
70年も昔の少女時代の過酷な体験は、「生き残った」事に対する悔恨がいまだにわきあがってくるのでしょう。
生き残って、今こうして生きていることに、心の痛みを感じるという。
いわゆる「死に遅れ」た事に対する、悔恨や罪の意識は、
戦後多くの仲間を失った兵士たちに共通の意識だったのでしょう。
「命は自分のためにだけあるんじゃない。産んでくれたお父さんやお母さんのものでもある」
洞窟で投降を勧めた、老人の言葉は、
比嘉さんが生きるための心の支えとして、今も鮮明に浮かんでくるのでしょう。
長いこと、アメリカの従軍カメラマンが撮った「白旗の少女」が誰なのか、
生きているのか、死んでいるのかさえ不明でした。
昭和62年、比嘉富子さんが、「白旗の少女は私です」と名乗り出ました。
終戦から42年が過ぎていました。
比嘉さんにとっては、
長い長い戦後に一つの区切りをつけるのに、
42年が必要だったのかもしれません。
その2年後の平成元年、比嘉さんは「白旗の少女」という本を出版しました。
(語り継ぐ戦争の証言№16) (つづく)
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