真珠湾奇襲攻撃 捕虜第一号 ⑤ 番外編・その後の酒巻和男
捕虜になってから4年。
太平洋戦争で最終的に日本が敗れるまで、
酒巻はハワイを経てアメリカ本土に移され、6か所の捕虜収容所を転々としました。
この収容所の中で、
アメリカの民主主義や合理主義への理解も深め、
続々と収容されてくる捕虜たちのリーダー的存在となっていきます。
日本に帰ってから書いた「捕虜第一号」には、
収容所で死を望む記述がある。
戦陣訓の中に『生きて虜囚の辱めを受けず』とあり、
捕虜になる事は最大の屈辱であると、教育を受けてきたからだ。
「撃ち殺してほしい」と米兵に懇願する。
しかし、願いがかなうはずもない。
また、顔写真をとられたとき、
彼は自分の顔にタバコの火を押し付け、人相を悪くした。
自分が生きていることが判明した時、別人になるための行為だったのだろう。
その写真は現存するが、顔面に押し付けられたタバコの火の火傷の跡がたくさん見られる。
自殺願望をもち、これが叶えられないと
やがて酒巻は、収容所を転々とするうち、
英語を習得し次第に捕虜のリーダーになっていく。
「何の理由をもって非国民と呼び、死ななければならないと言ひ得るのであろうか」と考え方を変える
帰国後の酒巻和男
4年間の米国での捕虜生活の後、1946(昭和21)年1月4日に無事帰国する。
翌1947(昭和22)年3月には「俘虜生活四 ケ年の回顧」を出版。愛知県のトヨタ自動車工業に入社
続いて1949(昭和24)年11月には、「捕虜第一號」を出版する。
戦後数年後の手記は、「なぜ死ななかった」「非国民、腹を切れ」などの誹謗中傷が絶えなかったという。
一千五厘の召集令状で、あるいは志願兵として、出征する人々に
日章旗に書かれた寄せ書きを贈り、のぼり旗で激励し、千人針を贈り、
万歳三唱で華々しく出征を見送った銃後の人々は、
手のひらを返したように帰還兵に冷淡なあつかいをした。
或る帰還兵は貝のように沈黙し、戦地での体験を忘れようと、
心に封印をした。負傷兵として帰還した人のなかには、
傷痍軍人として白い服を着て、行きかう人々の冷たい視線にさらされな
がら、屈辱的な思いで、街角に立つ姿も珍しくなかった。
敗戦を経て、人々の考え方は、一変した。
終戦、文字通り、敗戦ではなく終戦という言葉が多く使われていた、この時代に、捕虜の体験を発表する、しかも真珠湾攻撃による開戦のその日に、「捕虜第一号」という当時としては不名誉な体験記を発表した酒巻和男の勇気に驚きを覚える。
昭和44(1969)年には、トヨタ・ド・ブラジル社長に就任し、トヨタの国際的発展に手腕を発揮したという。さらに、再帰国後は、関連会社豊田総建の社長や参与となり、トヨタでの職を終えた。
1999(平成11)年11月 死去 81歳
(大東亜戦争九軍神慰霊碑・戦死した9人の慰霊碑・捕虜になった酒巻少尉は秘匿された)
戦後80年目の名誉回復
2021年12月8日、愛媛県伊方町の三机湾に新しい石碑ができた、碑には旧日本海軍の若者10人の写真が埋め込まれている。10人を悼むため、有志がクラウドファンディングで費用を募って建立した。
(朝日新聞2021年12月8日)
(史跡 真珠湾特別攻撃隊の碑 10名の名前が刻まれている)
実に、真珠湾攻撃から80年目の記念碑建立である。
紹介した酒巻和男の手記などによれば、1941年春から三机湾で約10カ月近くの訓練を仲間と共に小型潜水艦「特殊潜航艇」の極秘訓練に励んだ。全長24㍍の2人乗りで、2発の魚雷を積んでいた。攻撃後に母艦に戻るのは難しく、亊実上の特攻兵器だった。酒巻さんの艇は座礁し、同情の部下稲垣さんと脱出したが、海中ではぐれてしまう。酒巻さんは浜辺に流れ着き、米軍の捕虜となった。海軍は捕虜になっていることを把握していたが、攻撃に参加していたこと事体も隠ぺいし、「生死不明。機密の為口外をしないように」と家族に連絡、出撃前に10人で撮った写真から、酒巻少尉だけを削った。一方、戦死した9人は軍神としてたたえられ、戦意高揚のための自己犠牲の美談として、銃後の国民に流布された。
戦後80年目にしてやっと酒巻和男の名誉回復がなされた。
(おわり)
(語り継ぐ戦争の証言№38) (2023.01.24記)
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