「あゝ岸壁の母」 ① 岸壁に立つ私の姿が見えないのか
母は来ました 今日も来た
この岸壁に 今日も来た
とどかぬ願いと 知りながら
もしやもしやに もしやもしやに
ひかされて
(作詞 藤田まさと)
歌謡曲「岸壁の母」は、
息子の帰還を舞鶴港で待ち続ける端野(はしの)いせのことをモデルに、
昭和29年菊池章子が歌い、
昭和47年には二葉百合子がセリフ入りで吹き込み
300万枚を売り上げる大ヒットとなった。
戦後27年を経た昭和50年代でも、
戦争の悲劇である未帰還兵の帰りを待ちわびる母の愛情が
人々の感情を掻き立てたのでしょう。
終戦直後の昭和20年10月7日、
朝鮮釜山から陸軍軍人2100人を乗せた雲仙丸が入港したのを皮切りに、
引揚事業は昭和33年9月7日、樺太(からふと)の真岡(ほるむすく)から邦人472人を乗せた白山丸の入港まで13年間続いた。
終戦以来、主に旧満洲や朝鮮半島、シベリアからの
66万2982人の引揚げ者と1万6269柱(はしら)の遺骨が
祖国の京都府舞鶴市平(たいら)の舞鶴港の引揚桟橋に、帰ってきた。
平成6年5月に復元された引揚桟橋は、四方を山に囲まれ入り江の奥にあり、
私が訪れたときも、穏やかな波が引き上げ当時の喧騒を忘れたように桟橋の橋桁を洗っていた。
幾多の苦難に耐え、夢に見た祖国へ感激の第一歩をしるした桟橋。桟橋の脇に佇み我が子、夫を待ち続けた多数の「岸壁の母・妻」。そして、温かく迎えた往時の市民の姿。この史実を21世紀へと伝えるため、歴史の語り部として復元した』と桟橋の由緒書きにあります。
(舞鶴港 平引揚桟橋) (帰らぬ夫を待つ母と子)
この桟橋に立ち、
歌謡曲「異国の丘」を思い出すまでもなく、
多くの人が祖国の地を踏むことなく異国で死んでいった。
一方引揚船が桟橋に着けば、帰らぬ息子新二の名を呼んで、
端野(はしの)いせは、戦地から戻らぬ一人息子を舞鶴港の桟橋で待ち続けた。
ナホトカ港から船が着くたびにいせの岸壁に立つ姿が、
人々の涙を誘った。
(語り継ぐ戦争の証言№39)
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