湖畔の宿(昭和15年) (2)
「山の淋しい湖」は何処か
歌 高峰三枝子
作詞 佐藤惣之助
作曲 服部良一
(一) 山の淋しい湖に
ひとり来たのも悲しい心
胸の痛みにたえかねて
昨日の夢と炊き捨てる
古い手紙のうすけむり
おそらくは、傷心のひとり旅の歌であろう。傷心の理由はわからない。
単刀直入に、失恋の歌と言わないのは、前回ブログで、戦意高揚を損なうと評価された歌にもかかわらず
戦地に慰問に行くとこの歌のリクエストが多くあったことを書いた。
兵士の心を捉えた「湖畔の宿」は、単に失恋の歌ということではなく、戦時色の強まる時代の流れの中で、
どうにもやりきれない思いが、特に故郷や国を離れている従軍兵士には、他人にはいえないやるせない思いがあった
のではないか。その思いが、哀調を帯びたメロディーに乗って流れる、「悲しい心」「胸の痛み」「昨日の夢」「古
い手紙」といったネガティブな雰囲気に惹かれていったのではないか。
(二) 水にたそがれせまる頃
岸の林を静かに行けば
雲は流れてむらさきの
薄きすみれにほろほろと
いつか涙の陽がおちる
(二) もまた泣かせどころをいっぱい含んでいます。詞の持つせつなさと郷愁が人々の心を捉えたのでしょう。
台詞は一番の泣かせどころでしょう。この辺のことは、第一回目のブログ(9/13付)に書いておきましたので参照にしてください。
(台詞)
あゝ あの山の姿も湖の水も
静かに静かに黄昏れていく
この静けさ この寂しさを抱きしめて
私はひとり旅を行く
誰も恨まず みな昨日の夢と諦めて
幼児(おさなご)のような清らかな心を持ちたい
そして そして
静かにこの美しい自然を眺めていると
ただほろほろと涙がこぼれてくる
(三) ランプ引きよせふるさとへ
書いてまた消す湖畔の便り
旅の心のつれづれに
ひとり占うトランプの
青い女王(クイーン)の 寂しさよ
「旅の心のつれづれに ひとり占うトランプの 青いクイーンの淋しさよ」
夢破れて、傷心の女性を最後に持ってきて歌は終わります。
終始「感傷的」な詞に、服部良一の作曲がいやがうえにも聞く人の感情をとらえて離しません。
何よりも人々の心を捉えたのは女優・歌手の高峰三枝子の歌唱力と彼女が持っている、「世間の垢」に染まらない
清潔で純なイメージだったのではないでしょうか。
さて、「山の寂しい湖」の「湖畔の宿」とはどこなのか。
戦後間もなくから随分と話題になったようです。
作詞者の佐藤惣之助氏は昭和17年に他界され、作曲家の服部良一氏は詳しいことは何も聞いていない。
従って、関係者からの証言は難しくなりました。
静岡県・浜名湖などポピュラーに湖が候補に挙がったこともあったようですが、
「山の淋しい湖」というイメージからは遠く離れていると言うので、失格。
諏訪湖も候補に挙がったようですが、確かに「山の湖」という点ではいいが、
古い温泉地のある諏訪湖は、昔も今も温泉宿が林立し、「寂しい」という点では失格でしょう。
当然、富士五湖の山中湖、河口湖、精進湖、西湖、本栖湖なども候補に挙がったようです。
「山の淋しい、湖畔の宿」ということになると、どれにも当てはまりそうで特定できません。
作詞家がイメージを膨らませて書いたとすれば、歌に描かれた場所を特定することは無意味なのかもしれません。
あわよくば、「観光拠点の一つにしたい」という自治体の思惑が「歌の故郷」探しになるのでしょう。
箱根 芦ノ湖
高峰三枝子はどのようなイメージで、この歌をとらえていたのでしょうか。
さまざまな思惑のなかで、高峰三枝子はどのようなイメージで歌っていたのか。
平成元年、高峰が古希のリサイタルを開いたとき、
「私はこの歌を歌うとき、いつも芦ノ湖をイメージして歌っていました」
機運が一気に高まり、なんの根拠もないのに、湖畔の宿は「芦ノ湖の宿」になりかけたようです。
その2年後の平成3年、新しい発見がありました。
昭和17年に他界した、佐藤惣之助の手紙が発見されたのです。
佐藤氏が常宿にしていた榛名湖畔の湖畔亭の仲居に送った手紙が発見されたのです。
「『湖畔の宿』は榛名湖の事ではあるが、あの中のことはまったく夢だよ。ああいう人もあるだろうと思ったので書いたもの。宿は湖畔亭にしておこう」
という主旨の手紙でした。ちょっと素っ気のない文面ですが、まぎれもなく佐藤氏自筆の手紙です。
当時の状況を振り返ると、佐藤氏は釣りが好きで、各地を歩いているが、榛名湖は先妻を亡くした後一緒になった萩原朔太郎の妹愛子さんの実家が前橋だった関係でよく遊びに行っており、湖畔亭は常宿だったらしい。
(湖畔の宿記念公園)
以上のような経緯があり、、地元群馬県では、榛名湖を見下ろせる高台に「湖畔の宿記念公園」をつくりました。
歌碑の前に立つと、「湖畔の宿」のメロディーが流れ、歌のイメージが浮かんできます。
現在佐藤惣之助氏が泊った宿は、「湖畔亭」として残っていますが、当時のおもかげは少し残るにとどまっているようです。直接電話で女将と話をしてみましたが、特段「湖畔の宿」をアピールしている様子もなく、一階部分がお土産店、二階部分に宿泊施設6部屋があり、女将が仕切っているようです。
問題の手紙など、歌にまつわるものが展示されているようですが、「湖畔の宿」ゆかりの宿ということで訪ねて来る人はごく少ないようで、「歌の故郷」騒動のあったことも知らない人がほとんどだそうです。
口コミ情報を20件ばかり読んでみましたが、このことに触れている宿泊客は一人もいませんでした。
榛名湖に映る榛名富士を眺めながら、「湖畔の宿」のイメージを想い、歌に魅せられた当時の人たちの胸の内を想うのも楽しいですね。
長い文章を最後まで読んでいただいたみなさんに感謝します。
『うたの故郷』はシリーズとして今後も書いていきたいと思います。
(2016.09.16記)
近くに居ながらそうした経緯が有ったとは知りませんでした。
いずれにしても榛名湖に軍配が上がった訳ですね。
目出度し目出度し\(^o^)/
その記念公園は4月下旬から5月にかけて水仙に埋まります。
今では湖の回りも群落が見られる様になりました。
近年、榛名湖が結氷しなくなり観光客の足も次第に遠のき
まさに山の寂しい湖になってしまいましたので
あの手この手で客の足を向ける取り組みが始まった訳です。
先日、草津の帰り榛名の沼の原に寄りましたが
その時には榛名湖フェステが開催され丁度ライブコンサートが行われていました。
公園の近くには竹久夢二のアトリエも有りますがご存知ですか?
数年前に、歌碑設置の由来を知り、いろいろ調べ「湖畔亭」の女将とも話をし、ブログアップしたしだいです。
水仙の群落、榛名の沼の原のことは、はじめての情報です。ぜひ花の時期に逝ってみたいと思います。
その時はまた、ブログアップしたいと思います。