雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

読書案内「断碑」(短編)松本清張著

2019-11-23 21:32:49 | 読書案内

 読書案内「断碑」(短編) 松本清張著
  報われない人生を「反骨」と「執念」で生き抜いた男がいた。

  人生とは、「思い通り」にいかないものだ。
  むしろ、思い通りに行かないことのほうが多く、
  時にあきらめ、ときに目標を変えて、
  人生行路を歩んでいく。
  決してよどみに沈んだ病葉のように、
  朽ち果て、一生を暗い水底で終わってしまうわけではない。

  たくさんの思い通りにいかないことがあっても、
  それ以上に楽しいこともあったのに違いない。
  入試 卒業 就職 結婚 子供の誕生…
  親離れと子離れ。
  年を経て、穏やかになるのか、頑固になるのか
  人の一生は、
  その人が生きた境遇や親から受け継いだ「血」によっても違ってくるのだろう。

  短編小説「断碑」のなかで松本清張が描いた考古学研究者・木村卓治は考古学の
才」に恵まれ、

  非凡な見解を持っていたが、学歴がないゆえに学会から冷遇され続けた卓治は、考古学会という
  閉鎖社会に孤高の戦いを挑み続け、その才能を認められることなく鎌倉市極楽寺の仮寓で結核により、
  34歳の生涯を閉じる。

  木村卓治にはモデルがいた。
  当時の原始社会には既に貧富の差と階級が存在していた」という説を唱えた在野の考古学者・森本六爾(ろくじ)が
  モデルであるが、学歴も人脈もないため、学界から冷遇され続ける。
  清張は「断碑」のなかで次のように述べている。
  当時の考古学者は誰も木村卓治のいうことなど相手にする者はなかった。
  ……黙殺と冷嘲が学界の返事であった」と。

  森本六爾(ろくじ)

  若くして苦労をし、学歴社会の中で無念の人生を歩まざるを得なかった清張は自分の人生を
  森本六爾(木村卓治)の人生に重ね合わせて表現したのだろう。

  清張が描いた木村卓治は考古学上の恩人に対しても、学問上の理論は一切の妥協を認めず、
  対立する相手を糾弾し、歯に衣着せず攻撃した。
  そうした常軌を逸したような行動に、
  彼はますます考古学学会から疎んじられ孤立していく。

  今日では常識になっている、
  弥生式時代が農耕社会であり、一種の階級・支配社会の芽生えた時代であることを主張しても
  当時の考古学学会はこれを黙殺した。

  清張の描く木村卓治は清張自身の人生を反映し、いささか誇張された部分はあるが、
  大きく外れることはない。

  学歴のなかった木村卓治(森本六爾)にとって、
  学会とか学閥などといわれる閉鎖社会への戦いを挑まざるを得なかった彼の立場を思えば、
  仕方のない生き方だったのかもしれない。

  最後に鳥飼かおる氏の森本六爾に関する一文を紹介します。
 
  

   
  森本は、押しが強く周囲を慮る気持ちに欠けた性格が災いしたことから、
  自ら敵を作ってしまい、自身のよりどころだった考古学界に受け入れられる
  ことな
く、32歳の若さで亡くなることになってしまった。
  森本は言うまでもなく、考古学
に限らず、多くの「学者」に与えられる博士
  号などの学位、大学や博物館の中に自身
の研究室・チームを持つこと、学会
  で華やかに顕彰されることなどといった「結果」は何も残してはいない。


 松本清張の「断碑」の最期の二行は次のように記されている。

 
 昭和11年1月22日に息を引いた。シズエ(妻)死から二カ月後のことであった。三十四歳。
 遺品は埃を被ったマジョリカ焼きの茶碗と菊版4冊分の切り抜きがあっただけだ。

 あまりにも寂しい孤高の研究者・森本六爾の最期である。
 (文中妻の名前をシズエとしているがこれは清張の創作によるもので、実名はミツギ)

清張は森本六爾の最期を「孤高の死」として表現することによって、
才能があるにもかかわらず、
学歴がなくいずれの学閥にも属することのできなかった六爾の孤独な人生を描きたかったのだろう。
そしてそこに六爾の生涯と清張自身の人生の重なり合う部分に思いを馳せていたのではないかと思う。

 しかし、森本六爾がすっかり学会や世間から葬り去られたわけではない。
彼の生地である奈良県桜井市には六爾夫妻
を讃える大きな石碑が立っている(写真)。


 

 市のホームページは六爾夫妻を次のように紹介している。

 旧「大泉」バス停の南に碑がある。

森本六爾は考古学の鬼才と称され、「考古学研究」を発刊。内助の功もあり、次々と新説を発表。
唐古遺跡や航空考古学など、彼の研究が没後に的中し、我が国考古学界の先覚者とたたえられている。
 松本清張の作品「断碑」は森本六爾をモデルにしたものです。
20歳から32歳の没年まで、10冊の単行本と160余篇の論文があり、
「日本農耕文化の起源」や「日本原始農業新論」は不朽の名著です。


顕彰碑裏面

日本考古学の鬼才、森本六爾君は明治三十六年三月二日この地に生まる
独学にて考古学の研究に没頭し若年にして前人未到の「日本原始農業」を著し天下にその説を問う
しかるに研究その緒につきしのみにて昭和十一年一月二十二日逝く、享年三十二才
ミツギ夫人は福岡県の生れ、昭和三年結婚内助のほまれ極めて高かりしも夫君に先立ち同十年十一月十一日永眠、享年三十二才

共に若くして考古学に殉ず、まことに惜しみてもなほ余りあり
ゆかりの地、唐古池の発掘調査は昭和十一年十二月に始まり君の予見適中したるも相共にその成果を見ることなし
嗚呼(ああ)二粒の 籾 もし 成長し、結実しあらば 今日 考古学会の盛況を 思ひ 君の早世を悼むと共に 偉大なる功績を顕彰せむと この碑を建立す

奈良県立畝傍中学校同窓、奈良教育大学名誉教授、堀井甚一郎 撰書櫻井民大学 文学散歩の会 建立 昭和五十六年三月吉日


(市のホームページ及び顕彰碑裏面でも森本六爾の没年齢を32歳としているが、明治36年生まれで昭和11年没が正しいとすれば、六爾は34歳でなくなったことになり、32歳は誤りと思われる。)

 
  
在野に埋もれた森本六爾を木村卓治としてよみがえらせ、「断碑」という短編に表した清張の功績も大きいですね。

清張が「風雪断碑」を改題し「断碑」として
発表したのが1954(昭和29)年
 顕彰碑の建てられたのが1981(昭和56年)。

清張が「断碑」を発表してから実に27年の歳月が流れています。
この「断碑」の存在なしに、顕彰碑の存在を語ることはできないのではないかと私は思います。

          「断碑」とは、「割れて欠けた石碑」という意味ですが、世間に顧みられることなく風雪に埋もれていく
                 森本六爾の功績をイメージしているようです。

           書籍情報:清張の短編集 或る「小倉日記」伝所収 新潮文庫・傑作短編集(1) 平成14年12月 第62刷

 

          

    (2019.11.23記)   (読書案内№145)





コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« アスリートとスポーツ | トップ | 「虐待」報道に思うこと »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

読書案内」カテゴリの最新記事