団塊の世代の世間話

60年を生きてきた思いを綴った「ゼロマイナス1 団塊の世代の世間話」を上梓し、その延長でブログを発信。

みんな刑務所に入りたいのか

2008-07-24 08:53:50 | Weblog
 また無残な通り魔事件が起きた。犯人は33歳にもなって子どものような供述をしている。呆れるほかはないが、それにしてもこうも頻発するというのは、どういうことだろう。
 どこかの評論家がいいそうなことを書いてもしかたがないが、最近の能力主義、成果主義の偏重がその背景にありそうな気がする。
 日本人は農耕民族で、神代の昔から号令一下、村落の中で同じ行動をとってきた。田植えや刈り入れの時期に、みんなが共同作業をして暮らしてきた。村の中の一員としていれば、あまり考えることを必要とせず飢えもしなかった。
 ところが欧米社会は遊牧や狩猟、農業の混成社会で、それぞれの才覚が要求され、判断を誤れば飢え、そして死につながった。その上に資本主義が形成され結果、能力が問われる経済社会になっていった。
 この差は現在でも歴然とあり、その究極が市場原理主義となって現れている。それを農耕型の日本社会に持ち込んだ。
 すべての人間に成功する能力があるわけではない。年功序列で組織の中で流れに乗って仕事をしていればいい、という人が大半だ。その年功序列が崩壊し、仕事の端々まで能力が問われるようになった。
 当然、そこからスポイルされる人は多い。個性はあっても、能力なんか必要としない社会の方が日本にはマッチしている。
 その考えをベースに、今回の事件をみると、すでに人生に希望がなくなり、多くのことは挫折とともに経験した。これからも、あれこれ考えて生きていくのが面倒、という精神構造になっても不思議ではない。
 自殺では自分自身が寂し過ぎる。世間の注目を浴びる犯罪を犯し、ひと花咲かせ、そしてなにも考える必要のない平穏な場所に導かれるというコースだ。
 つまり、こういう人間の安息の場所は刑務所と考えているのではないだろうか。飢えることはないしゆっくり眠れる。多少の労働はあるかもしれないが、もう人生の面倒なことからおさらばできる、という理想の地だ。そこでじっとしていれば、齢をとっていく。人生に諦めがつく、という思いなのか。
 ややうがち過ぎとも思えるが、その対策としてもっと刑務所の過酷な生活を法務省はアピールする必要があるのではないか。高齢の常習犯が刑務所にまた戻ってくる理由は分かるが、若者までがそうなっては、なにかが実社会に欠けているとしか思えない。
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