人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

失くしていたものが見つかった!

2016-11-12 11:08:10 | 身辺雑記
私にとり、この十一月てえのは余程呪われているらしいです。
小学二年、謎のフランケンシュタイン・シンドロームに見舞われたのもこの頃…
過去に二度事故で病院に運ばれた事が有ります。
して今度は…この十日間の間に、大事なものを二度失ってしまったのです。
部屋の鍵をつけた小銭入れに、Tカード…
どちらも気が付いたのは、早朝、勤務先近くのファミレスでです。
(私はいつも勤務前、一時間半ばかし、自分だけの時間を作って、読書してたり、ブログのネタを構想しているのです)
もう、仕事なんてすっぽかして探しに帰ろうかと思ったくらいで、仕事中も気もそぞろで集中出来ませんでした。
確か一年前にも似たようなことをここで書いてましたっけ…
こりゃあ、厄月なんだ…間違いない!
何しろ、この問題だらけの有機体が何の間違いでか、この世に出てきた月だとキテます。
バースデイがハッピーだった試しなど一度もありません!
一年でもっとも私のバイオリズムが落ちる月のようです。
くそっ!…なんだこの身を切るような逆風は…
なんだかんだ言って、史上初の女性大統領誕生に期待していたのに…
木枯し第一号吹き荒れる夕方、淡い期待を抱いて心当たりを当たったら、出て来ましたよ、カードが…
そして失くしたことなど忘れかけていた、季節外れの寒波のピーク、冷たい雨にたたれた昨日…カッパを着ようとして、”やけに重たいな、何かジャリジャリしてるワイ”と思ったら、そのポケットから小銭入れが!
これはまた、にわかに風向きが変わってきたぞい…風向きの変わり目、季節の変わり目は絶対にバカにできません!
寒いときはどうしたって身がすぼむし、暖かい時は伸びあがります。
生き物もあらゆるものもこのように閉じたり、開いたりのパターンを繰り返しているのでしょう。
一昨日の夜、私は隙間風の入り込むような部屋の中で、同じ寒風の中であった時のことなどを思い浮かべていました。
底辺で懸命に生きている人たち、ノラ猫との他愛のない触れあい…
それは順風の時には、中々気が付かないものです。
すっかり疲れ切って感性も鈍ってしまったように思えた自分の中から、愛が染み出てくるのが…
そして又、今この時愛に呼びさまされて、身に覚えていたものが蘇る…
その度に実感します。

”失くしていたものが見つかった!”

トランプ氏の勝利宣言の終わりに流れていたのは、何故かローリング・ストーンズの「無情の世界」(原題は”君が欲しがっているものは、いつも得られるとは限らない”)でした。ストーンズ側は勝手に使われた、と怒っているとか…
愛こそは欲していても手には入らないものですね。
捉えることは出来ない…捉えられた時、すでに”ここに在る”と気付かされるものです。

今日は絶好の小春日和…紅葉を見に行こう…











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思いは異なもの

2016-06-07 12:20:17 | 身辺雑記
関東地方も梅雨入りした近頃、どうも気分が憂鬱になってきたと思ったら、急に近所でカラスが増えて来たのに気が付きました。今朝など、電線に一列に並んでとまっていたのです。
又、自分の住居のオーナーの依頼で周りの雑草を全部刈ってしまうことになり、「扉付近のここはそんなに伸びないから残しておいて下さいね…」と言っておいたにも関わらず、仕事から帰ったらきれいに刈り取られてしまっていたではありませんか!
そこは何ていう花だか知りませんが毎年今頃、白だったり、黄色、オレンジ色、ピンク…違う色で咲いて私の眼を潤してくれていたのでした。
ああ…
誰知れずボロ屋の片隅に変化(へぐれ)花 心の花はいつ咲き出づる

私は全く酒飲めないのですが、こないだ仕事仲間に飲みに誘われました。
「君は飲んだら絡んでこないだろうねえ…」と念を押していたにも関わらず、杯が進むにつれ始まり出しましたよ…グダグダと…
”OO君は…現場の主任は…会社の上司は…世の中は…”ったく、もう…分かったよ、君はどうだってんだよ!
自分はどうしたい、こうしたい、どうあったらいいか…って事が全く伝わってきません。
又、同じことを何度も何かのマントラのように繰り返して言っています。
ベルトコンベアーみたいに同じところをグルグル回り続けています。
で、どこに向かうのかというと、”自分はこう思う”に戻る…
こういうのに付き合うのは、二時間が限度で、それ以上は”急用を思い出した!”で強制的にお開きにするっきゃありません。ま、向こうのおごりだったからいいや…
この人はどうも悩みを一人で抱え込んでしまうようです。
状況など実際どうなっているかなどわかりゃしないのに、アレコレ考え巡らしている…要するに考えすぎです。
私はよく人と接する時は”休みの日とかどうしてますか?、とか趣味は何ですか?”とか聞くようにしていますが、こういう人というのは決まって好きな事をしてませんね。周りのことばかり気にしていて好きに生きてません。
人間好きなことしてたら、酒の席でもうるさいくらい、そういう話で盛り上がるものです(ジャズ・ファンってのが特にウルサイ)。それはそれで迷惑ですけど、生き生きとした顔を見てるとこっちも生き生きとしてくるものです。
ということはアレコレ考えちゃいない、ということです。
こう考えると、思いというものは実に重いものです。
ほんの些細なことから、思考ベルトに覆われてしまうものです。
この重い網にかかると容易に自力では脱出不可能になります。
そういう時は”自分でどうにもならない〝と気付けばいいんです。
”考えるのはよそう…”とするのは、考えすぎる人にはアダにしかなりません。
思いをどうこうしようとしなくても、意識があっちに向いたら勝手に離れて行くだけです。
これは思いを神の中に入れちゃう、ということで、こういうものが祈りというものでしょう…
祈りといっても形や行としての祈り以前にあり、またそれを超えてあるものです。
生きている、生かされていることが祈りと言ってもいいでしょう。
意識を向けよう、とか入れようとか自意識でそうしなくても、身に覚えるようになればオートマッチックになります。
そして又、思いに捉われるのが些細なところからなら、それから解放されるのもひょんなことからだったりします。
好きな事に夢中になった時とか、どんなことが媒体になるのか分かりません。
思いは又今日のどんよりとした雲模様みたいに流れて行くものです。
思いというのは実に異なものですね。
捉われば足かせともなるこの思い気付けば雲間に光ひとすじ

さっきふと玄関を出たら、あの刈り取られた所からもう小さく草が生えてきていました。
来年、いやこの秋には何色に咲くかなあ…。






















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貧しいものは幸いなり

2016-03-13 18:53:39 | 身辺雑記
最近、職場で久しぶりに宗教の勧誘を受けました。
私はこのブログでもかなり宗教(教団)にまつわるものには批判的なことを書いてますが、頭からはねつけることなどしません。とりあえず、聞いてみる事にしています。相手はどことなくとっつきやすい感じの人だったし…
して…O波のH教団ですか? ウーン…名前は聞いた事が有るけど…M教団と似たようなものか?エッ、違う?でも話を詳しく聞いてみると、これは典型的な新興宗教だわい…
「あなたは信者になって長いの?」と訊いたら、実にややこしい話になってました。
お金が無くて会費を納めてないんだとか…”ヒ、ヒサンやな~”
となると…この人は信者なの?某教団だったら会費を納めないと、(掟に背いても)霊線?が切れて光が受けられなくなるそうですが…!
人を導いたら会費は免除されるとか?
で、そもそもこの人の入信の動機が生活苦などで、”藁にも縋る思い”からだったらしいです。これもよく聞く話ですね。
何時もの私の口調とはまるっきり違うかも知れませんが、”宗教、神に関わることは自立心を欠いた依存な精神の表れだし、妄信は学の無いこと…”と言い切るのは簡単ですが、そのような切実な局面に立たされていたなら、その打開の突破口になるものだったら何だっていいだろう…と思います。どんな神サマでもとりあえずの避け所になり得るものです。
大体私自身だって昔は依存もしてたし、学の無いこともしてた訳ですし…経験してたからこそ、ついエラそうな言葉も出ちゃったりする訳で…
でも…その教団のことはよく分かりませんが、洗脳組織だったら辞めた方が身のタメです。
典型的なそれなので、”他の教えを聞いちゃあダメ!”ということなので我が一人教祖、一人信者の”唯我独尊教”の話など聞いちゃあくれそうにありません。「僕にもね、時々神が舞い降りるんだよ!」なんて半分冗談で言ってみたのですが、その時だけは真剣な顔して「それは一体、どこのドエライ悪魔なんだ!」といった表情でした。(笑)
この人は見た感じ、そんなに洗脳されている様には見受けられませんでした。ガチガチのあの特有の目つき、固着した口調は感じませんので…言い換えるとイイカゲンに見える…何か達観しているような…
何でも”数十年前に自分の人生を諦めた、世捨て人になった”んだとか…そんなに人生にくたびれたようには見えないが…どっか悟ってしまった人の様にも見えます。
ただ、”どうせ自分の人生はこんなもの”という惰性的諦めの思いに支配されている様でした…。
そんな中、私はどうしても彼にこんな事聞いてみたくなりました。「全てを失ったようになって分かった事ってないですか?」「ンー…別に…」
…私は本当にこの人のように路頭を迷うような局面に立たされたことこそ無いですが、全てを失ったような心的状態になったことは何度かあります。それは境遇によるものでは無く、全託に赴かせる力によってです。
そして、ハッキリ分かります! のっぴきならない事態に陥ってしまう事というのは、恩寵の力が臨む契機になるという事が…
宗教の信者という誰かが信じている神サマに縋ることなどのことや、又本当の意味で自らの人生を無にしてしまうこと、そして、ドエライ悪魔だか現臨だかに捉われてしまう事、というのは実に隣り合わせのことです。
これらの局面はいずれものっぴきならないものであるのは変わりません…(”自分は何でも知ってるし、何でも出来る”と自認して、自分を超えたものに預かろうとしない、ブルジョアの皆さんとは縁も所縁も無いことです。)
この内、最後の方は自分の意志を超えたところからもたらされるものです。
全てを失ったようになっても、生きている…という事は生かされているという実感を示されるという事です。
生かされているだけで伝わる幸福感!(ああ…気の毒なブルジョアの皆さん!)
それは人生を諦め、世捨て人のようになった人にこそ、開かれるかもしれないのです。
聖書にある”貧しいものは幸いなり”というイエスの言葉の意味が伝わってくるようです。

今度会った時は私の方から”唯我独尊教”の勧誘をしようかな…何て…ムリです!
私以外の誰も信者になれません。信者になるにはあなた自身の神サマを通じてしかなれません!(言い換えると自己信頼です)
会費も要りませんし、入ったら、辞められません! 脅されるから? いや辞める人は生まれてくることが間違ってます!









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幻の殺人事件

2015-02-14 21:01:29 | 身辺雑記
私はつ、ついに衝撃の告白をしなければならなくなったようです!…
実は…私は人を殺しました!
去年の夏、ある未明のことです…
夢の中で…

10数年前にも似たような夢を見た事が有りました。
この時は暴漢のような男に襲われたので、トラックの助手席に逃げ込んだのですが、男は尚も前に立ち塞がって来たので、運転手に「構わないから出してよ!…いってまええ!」とやってしまったのです。
男の生死のほどは不明でした。
しかし、今度はヤバかった…
会ったこともないどっかのオヤジがなんかの理由で、イチャモンをつけてきて、それがこじれてもみ合いになり、弾みだったか故意だったか、柱に思いっきりオヤジの頭をぶつけてしまったのです!
エッ…動かなくなってしまった! こ、これは…ヤバイ!
そこで、とっさに考えたことは…
「見つかってしまうゾ!…どっかに隠さないと…」
又、すぐさまこんなことも…「これは…そうだ、そうなんだ!ものの弾みってヤツなんだ!」実際のところ、殺意は?確かに…有った!…
要するに保身に懸命だったのです…。
こういう事はごリッパな人間には間違っても書けないでしょうね?
私はへーちゃらです。タダの人間ですから。当たり前のことながら…
でも、しばらくして冷静さを取り戻した時、もう茫然自失です…。
「私は何てことしてしまったんだろう…取り返しの着かないことを…」
その時の気持ちには、良心の呵責というものも有りましたが、なんて言うか…それまで感じたことの無いものがもたげてきました。
私の心に、このオヤジの人生を全うすることなく、命を絶たれてしまったという、無念さというものが伝わってきたのです。
そして命を奪ってしまった事の申し訳なさ…それは自分の存在を切り刻むという事に等しいものです。
言い訳がましいですが(あのお…これはあくまで夢の話なんですからね!)殺人というものは、「やってはいけないこと、罪なこと、罰せられるべきこと」というより、命そのものを損なうという事は本来性からやれないこと、他の命だけでなく、自他の命に係わることなのだ、という事を実感させられたのです。
そして、全身にジワーッとくる言葉を超えたもの(それはあのバイブレーションというには、さすがに重たいものが有りましたが)に包まれました。
これは通常良心(これには多分に社会的倫理観といったものが投影されていると思います)というものよりも、もっと根底的な、本来的なものの様に感じられました。
小池先生はモーセの十戒にある「汝殺すなかれ」に「汝、神の子なれば、殺すことなどすまい」と福音的解釈をしていました。
人を殺めることは罪というより、出来ないことなのです!
そうした感情は、人の本来性から与えられているものなのです!
今日いやと言うほど、毎日のように繰り返される忌まわしい殺人報道。それに手を染めてしまうという事は「自分が何をしているのか分からない状態」としか考えられません。
そのような宿業は誰もが皆潜在的には持っていると言わざるを得ません。
又人が定めた法や倫理に依らなくとも、誰にも自ずからそのような宿行に走らない生命法ともいうべきものが与えられています。
これらはどちらも他人事でなく、自分のこととして見つめる必要が有ります。
私は本当に貴重な経験をさせてもらったと思っています…。

人を殺めてしまうということは、何と忌まわしいことなんでしょう…
一生私は十字架を背負って生きなければならない…
でも、すぐ救われました。
夢だと気づいたから…。








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風邪ひいて思うこと

2015-01-03 17:40:41 | 身辺雑記
今、体中がジンジンしてます。少し熱いです。
何時ものアレ…バイブレーション? 違います。
風邪をこじらせてしまったんです。
代わりにあの感覚はどこかへ行ってしまいました…。トホホ…。
ああ、「神と共にあること」のそもそもの原動力、神と人とをつなげる中間子…何処へ行ったんでしょう…私は身捨てられたんでしょうか?
「瞑想なんてしなくたって、修行なんてしなくたって、思う先に波動に包まれちゃうんだ!」みたいな発言するべきじゃなかった、と反省してます…。
今の私はああいう事を事もなげに言ってる人間は「もはや人間じゃない!」としか思えません。
以前、私はその気が無かった、むしろ嫌な予感がしてたのですが知人にそそのかされて、意念を用いた瞑想の講習に行った時も同じような事が有りました。
それは、第三の目のチャクラに意識を集中するのです。
すると目を閉じた状態の視界に目玉のような輪郭が浮かび上がるのだと…
おお、見えてきました、見えてきました、楕円形のワッカが…
おお、消えたぞ! あの感覚が…。
回路が切断されちまったじゃないか! どうしてくれるんだあ!
まるで「お前の意念に頼るんなら、これは要らんだろ!」と宣告されたみたいでした。
ただ、その時はものの30分で回復しましたが…。
どうやったら回復出来るのか、そもそもどうなってそういう状態になったのか分からないので、手だてが有りません。
どなたか教えてくれませんか?
人から「そうなれる方法を教えて!」と言われた時はすかさずこう言いました。
「タダ、でか!」
今、私はつくづく感じているところです。
いつの間にかあのものを自分の意志でコントロールしようとしてたのではないか?
まるで自分の所有物のように思ってたんじゃないか?
あのものを管理しようだなんて思わないで、体調管理に努めるべきだったのです。
くれぐれもお風邪など召しまさぬように…


何時までも在ると思うなプネウマを
風邪ひいて愛しさ募る天の声
風吹けば息吹伝わる有難さ

 

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