人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

自由でなければ...

2023-05-16 09:33:42 | 宗教
ある宗教を熱心に信じている人からみれば、ここで色々異なる宗教や、教師の名前が何人も出て来たりして、おかしく思われるかもしれません。
これは言わずもがなのことですが、私は自由な感性で書かせてもらっているのです。
特定の教義や行法などに縛られたくありません。自由さを全く欠いた狂信的在り方は生理的に受け付けません!
私が書いているものは、”自由であること”が大前提なのです。
勿論、社会生活では、多々縛られること、不自由であることを余儀なくされることがあります。それから解放された余暇で、宗教なり精神的な道に勤しんでいるのでしょう?
そこでも尚、諸々のことに縛られ、不自由を背負い込むなんて、もうナンセンスの極みじゃありませんか?!...何のための、精神的な道、神信仰、真理の探究なのか?
私はさかんにここで、神のこと、祈ることの大切さについて書いてきました。
ある会の元信者の方は、その神信仰、祈ることで少しも幸福に与ることが出来ず、むしろそのことで苦しみを受け、辞めた現在でもその感情を引きずっており、それらに意味を見い出せないでいるようです。
私の感じでは、この方はその会を取り巻く宗教集団には付きものの、”集団的思念”の障りを受けており、神を意識する、祈るということの本質的なところには触れていないように思えるのです。
不自由に、苦痛に感じることは、やらなければ、やめたらいいのです。会を辞めさせてくれないのは邪教だから、何としてでも離れなければ心身共に破滅するだけですよ!
神を思う、祈るのが苦痛?...ナンセンスです!、やめたらいい!
愛、平安、リアリティに導かれないものは、祈りじゃない!...形は、謳い文句はそのようでも、別のものに変質してしまった何かなのでしょう。
意識を向ける先が間違ってやしませんか!、周りの教団の御用ききや取り巻きたちなんかである訳無いでしょ!
あなたは自由でなければ、神信仰も、祈りもする必要はありません!
神という言葉に、こんな理由でアレルギーを持っている人も沢山居るでしょう。
囚われる必要はありません。信じられないものを無理に信じる必要などさらさら無いのです。
いや、無闇に信じてはならない!...固定観念を強くして自由で無くなるから!
”信じなければ救われない!”...先の方でも、多くの信者にその精神的苦痛をもたらしているのは、こういった呪われた言葉、思いでしょう。救われたい、だけど信じられない、信じたくない...信じなくていい!、疑問に感じているのなら...
あなたが本当に信じたいものは、疑うことの出来ない、信じざるを得ないものなのではないですか?!
何の障りもなく、自然に意識が赴くもの...自由でなければけっしてそうなりません。
そして、このものこそが、諸々の思念の縛りから解放させ、本当の自由に導くものでしょう。
このものは、あの悪しき強制とは全く無縁です。あなたは自由でなければ、そのみ顕れの扉は開かれない!
宗教界隈には何と本末転倒したことが行われていることか!...


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真の公理

2023-02-11 10:18:06 | 宗教
”相克、不調和の種となるような数多の異なる宗教の教えなどすべて消えて無くなってほしい!”...この願いは叶えられた!
思いを超えてこちらに臨むものを神と呼ぶのなら、神によって!
いや、消えるもなにも、その前ではすべての神、真理についての教説は、そのように各々の都合勝手に述べられる、ただの言葉の羅列、理屈ごとに過ぎなくなってしまうのです!
これは、我々本来の自由な精神に根強く巣くう、神、真理にまつわる絶対的権威への隷属からの解放とも言えるでしょう。
そして、ついに知り得たのです。不変、普遍的真理なるものを!...そ、それは?
言えるか!、んなもん!...言えることはただ一つ!...言葉に表せる真理など何一つとて無い、ということに尽きるでしょう!
要するに、神的な顕われの前では、すべての言葉、理屈は黙すしかないということです!
万人に通ずるであろう教えとは、沈黙、無であった!
逆説的ですが、古今東西のあらゆる人間はそうならざるを得ないでしょう!
いや、しかし...何故私はすべての人間の心を代弁するようなことを言っているのだろうか?
分かっているのでしょうか?...知らん!
でも、言えちゃいますよ!...これを読んでるあなたはどうなんですか?
分かっても分からなくても感じて来ないですか?...分かってる私やあなたなど居なくてもいいのです!...
カソリックとは、元々公教的な、普遍的教えという意味があるそうですが、我々一人一人の実存に照らせば、それが一個なる私の主観によらない、真の”おおやけ”、公共、普遍なる在り方を示すものではありませんか?
それは、出るところへ出たら、誰しも納得させられるでしょう?
神は何次元の存在だとか、唯一神だとか、汎神論、無神論...あらゆる決めつけらた教説というものは、すべてこの無なる公理からは浮いた、普遍性から切り離された異端の教説ではないのか!?
これが、いつの時代においても自称神の代理人、自称覚者たちが厚しくも繰り広げてきたことへの強烈なカウンターでなくて何であろう!
その公の教えについて、感じ方というのは各々自由でしょうが、そこにある固定的な理を付することは出来ません。
如何なる真理らしき教えもこの逆説的公理からはズレたものとなる...それはあなたの内側から来る!、内側に息づいているのです!
だから...あなたの、真実を知りたくば、”あなたの神に聞くべし!”、なのです!
それは、私やあなたにとり絶対的な意味を持っています!...しかし、その絶対性が一度外側に向けられ、大勢におもねられるや、悪しき相対地獄に堕してしまうのです!...だからゼッタイ言えない、言葉が出て来ない!
私を超えたものがモノを言うのですから!...
然るに、我々自らはこの相克、不調和を収束させることは不可能でしょう。
されど、私は日に日にあの御方、御自ら顕わにされるのを感じてやまないのです!
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普遍宗教の夢

2023-02-10 09:59:42 | 宗教
何故、世に数多相異なる宗教宗派があり、異なる神、教えが説かれ、相反目し合っているのだろうか?...日本でこそあまり見られないとはいえ、世界ではいつの時代でも、その相克から戦争にまで発展してしまう有様です。
私には昔から神は一なるものであり、人は神にあって調和に導かれることが出来る、という暗黙の理解がありました。 それは、学生時代M教団の信者だった頃からそうだったのでして、そこを辞めた理由は、その独善的在り方に疑問を抱いたからでもあったのです。
”宗教が争いの要因になるのなら、そんな面倒なものすべて消えて無くなってしまえばいいんだ!”、と何度願ったことでしょう!(神に?)
私の精神的求道は、そこから脱退したことを機に本格的に始まった訳ですが、その一つの目的は宗教思想の相異を超えた不変、普遍なる真理を究明することにもあったのです。
そして、その求道の初期において、如何にもそれらしきことを謳っている教えにも接し、一時は共鳴することもありましたが、本当に、ホント~に全心全霊が揺すぶられるようなことには至らなかったのです。
むしろ、その教えが皮相的な段階に留まっていて、内実は数多の相異する団体の一つと変わらない様相を見るにつけ、失望感を味わうことになってしまう始末なのでした。
それもそのはず、それは教えというものがそうであるように、”言葉”によって述べられ、書き表され、人が集まるところ、何らかの”派”的な形を取らざるを得ず、多かれ少なかれ相対性というものを受けてしまうのは宿命と言っていいからです。
もし、この世のどこかに誰もが得心出来るような普遍的な教理を持ってする世界宗教、世界教師のような存在が現れたとしても、それはドストエフスキーが「カラマーゾフの兄弟」中で描いた、大審問官の如き、反キリスト、サタン的ギマンに満ちたものとならざるを得ないでしょう。
普遍的真理というものは、かように語られる、書かれる言葉、見える形などに求むべくもないものなのです!
だからといって、そういうことを考える私が、相対の限界内を生きている私が一体、どうやってそれを超えた普遍世界を見い出すことが出来るというのでしょうか?
いや、そもそもそんな流通普遍の真理などというものは、所詮考える人間が思い描いた理想郷、幻想、夢に過ぎないのでしょうか?
とにかく、見える現実にあって、それはいたずらに幻滅を味合わされるだけなのでした。
”この教え、この先生はホンモノなんですよ!”、だと!、分かった、さっさと消え失せろ!
しかし...私の内からは、あの”神は一なるものである、人は神にあって調和に導かれることが出来る”、という思いは一度も消え失せたことが無いのでした!
何という、性懲りの無いサガなのでしょう?(私だけか?)
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見える言葉、見えないコトバ

2023-02-08 10:13:05 | 宗教
主流のキリスト教というのは、も、とにかく聖書中心なのです。
聖書が絶対権威であり、それからズレたら大変なことになるらしい?...縁の無い人には全くどおってこたない話なんですが...
又、日本で昔から知られている、”拝むこと”を中心とした神道、仏教、その混淆体などの民間宗教では、とにかくその経文もですが、神仏の”ご託宣”というのが、絶対的な影響力を持っています。
前者は比較的知識階級の人が多く、そうでない後者を下に見たり、バカにしたりするようですが、”言葉”に権威を与え、支配されているのは同じだと思うのです。
そういうもの以外でも、様々な宗教では、多く独自のその教祖さんなり、教典なりの”お言葉”が絶対権威として崇められているのです。
その金科玉条は私心で疑ったり、つけ加えたり改めたりすることは出来ないようなのです。
やはり縁の無い人には、バカバカしいことなんですが...自分がある宗教に信従していて、人が同じように別の宗教に信従しているのを見て、多分オカシイと感じるのでしょうが、自分も同じように思われているのだろうとは感じないのでしょうか?...自分はひょっとしてオカシイのだろうか?と感じる人は何人居るでしょうか?...まあ、そういうことが見えないことがハマるということなんでしょう?(私もこういう心理は経験していて分かりますよ!)
その”みコトバ”、聖書には”始めに言葉ありき...言葉は神なりき...”とあります。これで、如何に言葉に絶対権威が与えられているかが知られるでしょう。
このコトバとは、元はギリシア語の”ロゴス”のことですが、その原意は我々が読み、語り、記す形ある言葉である訳が無い!...自分自身に即してみれば分かるでしょう!
自分の物心つく前から言葉はあったのか?...何でそれが神と共にあったなどと言えるのか?
それは、言葉以前の神的な、その...つまり何だ?...”神的なハタラキ”というか、要するに原初のコトバなのです。古い訳にある、老子とも通ずるであろう”道”でもいいでしょう。
とにかく、それは、私自身の始原とも関わるもののはずなのです!...“そう書いてあるから”なんて言葉の奴隷になっていては絶対に分からない、あるものでしょう。
その神のハタラキの前では、私の思いも、為そうとする意志もハタラキません!
勿論、疑うことも、付け加えたりすることも出来ません!
それは絶対的な意味を持っています。ただし、人間精神が創り出す権威というものはありません。それに支配されるということも当たらないでしょう。思っていた私がその前には無力であっても、それ以前から在る、それを超えた私が自由に、顕わになるからです!...それは全くもってその私そのものと切り離されるものではありません!
こういうことは、我々の思考を超えた意識の領域で行われることなのですが、多くの宗教などで見られる、言葉に支配された神信仰というものは、この原初的な神の顕現に伴う秘儀がどっかとで我々の表層に刷り込まれていて、思考の次元で変質して置き換えられたもの、と思われます。
その端的な表れが、原初の形なきロゴスが形ある言葉に置換されることでしょう。
我々のまっ中心にある実存に照らしてみれば、見える言葉に囚われ、見えないコトバの恩恵に与るという、この二つの道の差し示すところには何と天と地ほどの開きがあることか!...
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道を照らす火

2022-12-14 09:33:49 | 宗教
ある時、道院の集会である会員がこのようなことを言っていました。
「我々の道は、キリスト教や仏教など諸宗教のさらに上のその大本の神を奉じているのだ、云々...」と。
こんな言葉はキリスト教会でも聞かれますよ!...その道というものは、諸宗教とどこが違うのでしょうか?
要するに自団体の優位性を主張したいんでしょう。こういう傾向は、既成宗教だろうと、”そんじゃそこらの宗教とは違う道”だろうと、人間の集まるところでは多かれ少なかれあるものでして、他の”超宗教”においても同様のことを聞いたことがありますが、反感こそすれ共感したことなど一度もありません。
こういう主張がなされること自体、数多の宗教が辿る運命のように、その元なる大道に開かれた在り方からズレてしまっていることに気が付かねばなりません。
ハッハッ!...そこにどうして五教を統べて、一なる道に融和させる道が開かれるであろうか?
何故、こういうズレが生じてしまうのでしょうか?
抽象的な教理、字理にトラワレてしまうからでしょう。何故トラワレてしまうのか?
内に道統に連なる火、道を照らす火が点されていないからでしょう!
事の優劣でなく、道と宗教を分かつものは、那辺にあると言えます。
それは、具体的に、物理的とは言えないながらも、ある暖かみとして感じられるものなのです。愛、安らぎと言い換えてもいいでしょう。
そしてそれは、自己自身と離れてあるものでは無い!、方時も無いのです!
教理、字理に関するものは、それについて思念する自己と二元的に分離していて、それに一致するには追従してゆくしかありません。
しかし、それはどこまでも二元的な思いの世界を超えることは出来ないのです。
又、道統の火は、別の団体においても、あらゆる固定観念を乗り越えて、虚心坦懐に臨めば、多少感じ方は異なることはあっても感じられるはずです。
大道に二つは無いのだから...それは普遍世界につながっているものなのだから!
世に数多の教えがある訳では無いのです。一なる道があるだけではないでしょうか!
これ、”我が宗のみ尊し”、という如何にも普遍世界から浮いた在り方とは、天と地ほどの開きがあると言わねばなりません!

というようなことは、今だからエラそうに言えるのでして...実はあの道を照らす火、光のことは、ずっと自覚的に感覚されていた訳では無かったのです。
ただ、どういうものが私の内に息づいているかは感じていたのです。
それは、見えない導きとして認識されていたものに他なりません!
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