人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

第一義のもの

2024-01-07 09:52:06 | 宗教
私のこれまでの読書傾向として、キリスト教関係のものが多かったように思います。
それらの信仰書とか直接の関係は無くとも、西欧の文学、哲学などはそれを背景に持ったものが多く、それを含めるとかなりの量にもなりましょう。
そして、それに多く共感を受けてきたのも事実です。
いくつかの集会にも出入りしたこともあります。
でも、私は一度もキリスト者を自認したことは無かったのです。
勿論私は聖書を片時も離さないような人間でも、時たまでも読んでる人間でもありません。
又、当たり前のことですが、キリスト教だからと言って、どんな本でも読んで共感を受ける訳ではありません。中には抽象的な観念ごとや、独善的な護教論に終始してたり、到底読むに堪えないものだってあるのです。
キリスト者を自認する人の多くは、その聖書、教会、教義などに賛同しているのでしょう。
そして、他宗教の本などには、深く追求したり、傾倒するということも無いのでしょう。
しかし、たまたまある契機に、他宗教のある教えに触れて、自分の心の奥に深く響くのが感じられたらどうするのでしょうか?...護教精神を脅かすものだからと、深追いしないように、避けてしまいますか?
これが肝心なことなのです。私にとっては、如何に自分の心奥に突き刺さるものがあるか、
魂を揺さぶり、自己実存を目覚ませるものがあるか...それに尽きるのです。
他に何があるだろうか!...それには、宗派の相異など問うところではありません。
何故、自分の魂、実存に関わることを宗教の諸々の決まりごとなどで覆い、壁を造らなければならないのですか!
例えば、何が原始のイエスの福音なのか、ブッダの原始の教えなのかを追究することも、こと自分の内奥を開くことに関して重要な意味を持つことでしょう。
だけど、それはあくまでそのことあってのものであるはずです。一体、何が取り換えの効かないくらい第一義のものなのか?
そこからズレてしまうことが無ければ、何が正統で、異端だろうと、どっちでもいいではありませんか?
大体そういうものは、どっかのエラそうな物言いが勝手に決めているものに過ぎないのですから!...(ただ、一つキリスト教関連で言えることは、その実存に迫る思想~実存主義の台頭には、かなりその影響が大きかったのも事実で、この部分が多く私の共感を呼んだのでしょう)

と、まあ、こういうのが私の精神的な歩みであったのです。
だから、“あなたは何教か?“、なんて訊かれても分からないですよ。
“本格的に“、こういうイイカゲンな道が始まったのは、そう、あの無名の、見えざる御方が私に臨んで来てからだ、とは言えるでしょう。
これからズレたことは一度もありません!...


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神と仏

2023-11-26 09:31:09 | 宗教
まったく常識的なことですが、日本人は昔から神と仏を信仰している、それが日本人の宗教なんだ、と言って大抵の人には頷いてもらえるでしょう。
そのように一般には認知されているのです。(いや、そうしてみると一宗派の一つに過ぎない仏教の影響力の大きさというものを改めて感じてきます)
で、“神と仏とはどう違うのか?“、なんてことも昔から取り沙汰されたりしています。
そんなもん、どっちも自分、思いを超えているということでは同じだし、そんな理屈ごとなんかで神仏につながることなど出来まへんやろ!、と私は言いたくなる訳ですが...
理屈を言ったら神にも一神教やら多神教やらあるし、仏でも、ブッダその人を差したり、そういう悟った人のことでもあるし、内なる仏性のことみたいだし、大乗になると、それは仏教に非ずということも言われているが、大日如来とか阿弥陀、観音様とか神と同じように礼拝されたりしているのも沢山あったりで、もう、きり無いわ!...訳が分からないから大雑把に“神仏“でいいんでしょう?
私はしかし、どうしてもそこに意識が向かわざるを得なくなるのです。
意識されると、先のように区別など出来なくなるのですが、それでも幾分その“向き“に異なるものも感じます。
神という言葉からの、又それを超えた響きには、いつも言うように自分、思いを超えた、超越的なものが感じられます。そこにも自己と切り離されないものがあるのは言うまでもありませんが...
一方仏というのは、大日如来などのすべてに超越した宇宙神のような性格を持ったものでも、自己に内在する仏、仏性のようなもの、言うなれば真我的なものと切り離されないものが感じられます。
いや、当のブッダはそうした実体ある真我を否定し、無我を説いたんだ、という意見もあるでしょう。
いやいや、それは我があろうと無かろうと、凡我を超えた“梵我“のことを問題にしているのに変わりは無いんだ、なんて声もここから聞こえるぞ?!...要するに真我的なものの響きが伝わってくるのです。
だから...“日本人は昔から神仏を信仰して来たんだ“、と当たり前のように馴染んで来た思いに改めて意識が向けられると...そうだ、我々は超越的にして内在的な、普遍的な宗教精神を、そうと知らずに育んで来たのだなあ、と感じてきて、何とも言えない驚きと感謝の思いでいっぱいになります。
何か自ずからす~っと、その一にして二、二にして一なる、ひいては全一なる“神仏“に吸い込まれるようになるのです。
いいかげんにして、大雑把な日本人の神仏観には、このような普遍性に開けた、“大和“なる精神が内包されているのです。
日本人の内なる神仏のこころが呼び覚まされるのを願わずにおれません!...

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この普遍世界に向けて!

2023-11-19 09:28:44 | 宗教
普遍性へと開かれたものとして降ろされた、五井先生が提唱された「世界平和の祈り」もその祈り言に囚われたためか、一宗一派の祈りになってしまった感のあるのは実に残念なことです。
その点、出口王仁三郎師が「世界の宗教の統一とは、世界中を大本の教えにすることではない。名称は神だろうが、仏だろうが、キリストだろうが何でもよい。すべての宗教団体なり思想界が、宇宙根源の神の意志どおりになったら、それで世界の平和は実現するのだ」と述べていたことに私は普遍世界に開かれた精神を感じざるを得ません。
その宗派の信者たちが、その置かれた立場でその奉ずる神仏なりに、本当に意識を向け続けたらいいのです。それはやはり祈りを通して(勿論、形は慣れ親しんだものに則ったもので構わない)ということになるでしょう。
ところが、各宗派の人たちはそうして祈りをしているかというと、多分してないだろうと思いますよ。していても因習、形式に堕してしまっていることでしょう?
それよりも、教会や寺社の維持とか、諸々の行事などで忙しくて、なおざりになっているんじゃないですか?
とにかく宗教団体というのは、どこでも老朽化しているのが現状なのでしょう。
だから、意識的になって祈りをすることが必要なのです。意識的に祈るとは、観念ごとじゃなく、その宗教の原始に立ち返って、神的なものに帰一することに他なりません。
もっとも、それは、各自の思いを超えるばかりか、その宗派の枠も超えてしまうことにもつながるかもしれないのですが...それが普遍性に目覚めるということなんだ!
又、日本人は無宗教だ、なんて言われていますが、特定の宗派に属さないことが無宗教を意味するなど、とんでもない認識不足と言わねばならないでしょう。
これは、その実日本という国は、無教会、無宗派信者の天国ということの裏返しではありませんか?
無教会、無宗派とは、因習やセクト性から自由であるということ...自由であるとは精神的にいつも若いということです。
こういう人たちこそは、自由な精神で、祈りや瞑想を通し、神的なものにつながることが出来るでしょう。
日本人は生まれた時からこういう特権に恵まれていると言えるのです。
一度、宗派に属している人も属さない人も、皆にその内に眠っている火種に火が付くなら、それはもう大変な世界平和実現に向けての、大きな“うねり“をもたらすことになるであろうことは、私には手に取るように感じられることなのです。

私はこういうあまりに不相応な、大それたことを声高らかに叫ぶつもりなど毛頭ありません。
一自由人の、言い換えれば一無生産者の戯言と思って頂いて結構です。
ただ、これを読んで頂いた縁ある人たちに、私の思い、祈りが伝わらんことを願って記しただけなのです。
心ある方の意識にとどめられんことを!...
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宗教の本と末

2023-06-29 09:58:39 | 宗教
“この教え、この方法でなければ、救われない、悟ることも、幸福になることは出来ない!”
何度か言っているように、こういう言葉ほど無駄なものはありません!
未だにそんな言葉が平然と飛び交っているとは!...とっくに終わっているのではないか?!
言ってる当人が救われていないのは間違いないでしょう!...
宗教的救済も、悟りも全く持って自分自身の、主体的な問題なのであり、他人がどうこう出来る問題じゃないのです。
そういう言葉からは、根強い宗教的カルマのようなものしか伝わってきません。
そうです!…それは、彼らが特定の教え、方法へのトラワレ、迷いから救われていないということを如実に物語っているではありませんか?!
私なんかも特にそうなんでしょうけど、人間誰しもやりたくないことはやらないし、誰に言われなくともやりたいことをやって生きているのです。
“その教えや行法は私にはどうも合わない“、と感じたらさっさとやめたらいいのです!
そう出来ないところに宗教的カルマがあるんでしょうけどね?
エセ教師(間違いなく、そうだ!)のそういう言葉がインプットされていて、中々やめられないとか?(五井先生のように、”イヤならおやめなさい!”、というのが当たり前なのです。”取り巻き”は何と言うのか知らないが...)
現在、苦しみ、悩みを抱えている人は、ワラをも掴む思いで、そういうものに従ってしまうということもあるでしょう。それでも自分に合うかどうかは分かるものでしょう?
”合わない”、というのは具体的に言えば、自然に意識がそっちに向かわないということ、
自然じゃない、無理がある、礙るものがあるということです。
そういうものを続けていても、絶対に救いにも、幸福にもなれません。続けている段階でそうなのだから!
幸福に感じているのなら、今、やっているだろうし...何もやらなくてもそうなっているだろう...
それに幸福を感じているから教えなり、行法があるのです。それらは要するに媒体ということなのです。
最初のうちは、あまりよく分からず、しばらくやってから分かって来るものも、あるにはあるけど、私の場合多くは、私に縁の深いものは、出会った時に幸福に感じているものばかりなのです。それら媒体を通して!
それは、どこまでも私自身の問題であって、周囲の雑音の出る幕は無いのです。
正法は自己のうちにあり、諸々の雑音、雑行は末法を写し出す...
正に宗教的なものの本と末を示すものでしょう!
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すべての無教会人へ

2023-06-27 10:35:15 | 宗教
ずっとこのブログを読まれている方ならお分かりかと思いますが、私は特定の宗教、思想から自由なのです。
いくつか、そういう団体と関わったことはありましたが、最初に入信した宗教教団は別として、その枠に縛られて、自由を失うということは無かったのです。
特定のそうした枠の中では、けっして私の精神が生かされることはないのです。
これは、その教団との関わりで苦しみを抱き、そこを辞めて初めて自由の尊さを知った私の宿命と言えるでしょう。
それは、言わば無教会人の宿命でしょうか?...これを読まれる方の多くもおそらくそういう人たちではないかと拝察されます。
無教会というのは、ご存知のように明治時代、内村鑑三先生によって提唱されたものでしたが、私がここで言ってるような、”生粋(?)の無教会人”とは意味合いが異なっています。
内村先生に始まる“無教会主義”というのは、諸々の理由で教会に行けない信者や、先生のように教会制度に反感を持っていて、“行かない“信者たちの、ある精神的な”群れ“のことですが、そこでは言うまでもなくキリスト教、それも福音的な教えを信奉するということが大前提となっているのです。
彼らは教会は持たないのでしょうが、心の中にはその精神的牙城ともなる教会は、固く築かれていりのです。
“私はキリスト教からも聖書からも自由だ!”などと言おうものなら、即破門となるでしょう。教会が無いというのに!
又例えば、五井先生を信奉していて、先のように現在の会の在り方に反感を持っていて、会から離れている人でも、先生の教えが強固にその精神に根づいて離れないような人は、私はここでは無教会人と見なさないのです。
要するに特定の教えの信者か否かということが大きいのです。
勿論五井先生に縁のある人でも、そうした信仰から自由な人も相当数居ると思われます。どのくらい縛られ、自由かということは程度の問題と言えるでしょう。
そういう自由な無教会人にも欠点があります。
心根に根づくものが無いというか、一歩踏み込みが足りないというか、如何にも表層を漂ってばかりで、浅薄な印象が拭えないのです。
それでも私は狂信的信者のような在り様よりは、はるかにマシだと思います。
”強いられる“ということが無いから!
言い方を変えれば、自由であること、精神的に開かれていることは、何よりも尊いことなのです。
自由で、開かれているから、今の状態を超えることが、否超えせしめるものを受け入れることが出来るのです。
私はかつて、いつも異なる団体を渡り歩くのを”なりわい“にしてる人に、「あなたのその遍歴の中であなたの魂が揺さぶられるようなものに出くわすことは無かったのですか?」、と尋ねたことがありました。
すると彼は「いや、そういうもので心に“砦”を造ってはダメなんだ!」と先の私の無教会人の”教義”そのままのことを言うのでした。
彼はまだ、“心に砦を造ってはならないという、その心がこぼたれるものには出会っていない“ようです。その言葉からはそういう出会いを予想されるものも感じましたが...
自己はどこまでも、それを超えたものに出会わなければ、平安の内に落ち着くことがありません。
自分の心、思念で築かれた砦、教会堂に居座り続ける訳には行かないのです。
思いを超えたものに捉えられ、自分の内奥にそれが鎮まるまでは!
その場、その時の思いに流されることなく、あの愛、安らぎを感じたならば、少しく意識的になることで、真の神の宮、内なる教会が見えてくるでしょう...。


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