人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

言葉の向こうにあるもの

2024-05-01 10:10:20 | 雑感
私がここで精神的な道について書いていることは、ほとんどが言葉では言い表せないことばかりなのです。
それは、例えば、“現臨にある“、ということ一つとってもそうですね。
これを哲学的に難しく説明することも可能かもしれませんが、まあ、頭悪いもんでロクなものにはならないでしょう?
文章を書く上で、特に哲学的なスタイルを借りる場合などは、読み手がそれを抽象的な一つの哲学思想のようなものとして読み込むのは自由でしょう。
私は、言葉に言い表せないものを言語表現を用いて言い表すことを意図して、そのように書き表す訳ですが、それではその本来の意図は伝わらなくなるのです。
“悟り“だとか“空“のこととか、ホントは“神“、“自己“といったことでも、観念的な、理屈の世界だけで展開したりするほど、ヒマで、バカバカしいことはありません。
現代の哲学では、そのような空論、戯論に走る傾向もあるようで、それでは頭だけで生きてる奇形人間を作り出すだけでしょう。
本来、宗教でも哲学でもそういうことは、言葉、概念以前に生起された原体験、原態というものがあり、その上で言語表現がなされ、他に伝えられるものであるはずなのです。
又、最近ではしばしば、悟りや空のことが、量子力学などの科学的アプローチを用いて言語表現されることが多いようですが、これも本来は科学的、客観的に実証出来ないことをそのような方法で表そうとしているものなのでしょう?
しかし、それも読み手がその本来伝えたいことを理解するかどうかは分からないのです。
そして、科学的事実、実証というものに囚われると、その本来性からズレてしまうのは、哲学的論理に囚われることと同じでしょう。
私の場合、独り善がりと言われようが、客観的事実の方に向けられるということは、ほとんどありません。勿論、全然無い訳ではなく、無ければこんなことやっちゃいませんよ!
いや、伝えたいという気持ちは...ある!
人間は、自分が本当に喜び、幸せに感じたものは、どうしても表したい生き物なんです!
伝わらないのは、私の力量不足ということなので致し方ありません。

以前、私が人前で、何ごとかを込み上げてくるままに語ったことで、又インスピレーションの起こるままに書き殴った文章を読んで、異口同音に「あなたは言ってることはよく分からないけど、言葉に伝わらないものが伝わりました」というような感想をもらったことがありましたが、これは何よりも嬉しかったことです。
私の言葉に接して、ヘンに分かったというのはおかしい!...そうでしょ?!
でも、本来伝えたいことが伝わり、言葉も理解してくれたなら...(そういう人は二人くらい居たかな?)尚嬉しいですが、何人そんな人が居るのかは知る由もありません。
けど、僅かながらも(たった一人でも)そういう方が居られたなら...との思いで今日も書き表している次第なのです。


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私の本心?

2024-04-04 09:47:23 | 雑感
長年、霊性の道を歩んでいて、中々思うような境地に導かれないという人も居られるでしょう。
そういう人に向かって、“長いこと一体何やってんだ!“、なんて酷いこと、アタシャ、言える訳ありません。
そういうことは、個人的に因縁のある、あの反面教師に対して“情け容赦なく“、浴びせているのでして、そうでない人には当てはまらないのです。
大体、私はいつもここで、“自分の思い、力を超えたものに拠らなけば何も開かれない“、と言っているのですよ。言ったことが自分に跳ね返るようなことは決して言いません。
だから、そのように導かれなければ、何も開かれなければ、それを受け入れなければしょうがないのです。このありのままの現実を受け入れるということもいつも言っていることです。
私がそういう人のことをどうこう出来る訳ではありませんが、ただ、これ又いつも言うように、あなた自身にとって神なら神というものが、霊性を開くということがどういうものなのか、ということを他人行儀でなく自分自身に問うてみる、というようなアドバイスは出来るかと思います。
そう自己の内心に省みるのです。それでダメなら諦めて、すべてを任せて受け入れるしかないでしょう。
しかし...いやもう、私は何度も経験しているのです。その時何かが変わるのを!
自分がというよりも、自分の場が変わるという感じになります。そうなると、自分をどうこうしようという思いから離れるようになります。
そう、思いから離れる!...思いを超えせしめる場がそこに現出されるのです。
言ったことはすべて私自身が経験していることなのです。
道を歩んでいて、思ったようなことに導かれないことも、思ってもいなかったことに導かれたことも...それはありのままの自分の本心?の発露なのです。
だのに、何だあのウマシカは!、何十年も祈りの道に精進してるらしいが、カルトに盲信したり、不食だとか自力作善の雑行に盲進したり...
そういう自分の現実を省みないで、どこまでも、より高い、進んだ、正しい自分であろうとする自我の思いなど私は手に取るように分かります。何でかと言うと...んなこた、分かりきってるじゃありませんか?
何で私は、鏡で自分を映し出すようなことを彼に突きつけなければならないのか?
これが因縁というものか?...
彼は自分の思い、力の限界にぶち当たるという挫折も知らないし、自分に内省し、反省することが出来ないらしい...だから、“さっさと地獄へ落ちてしまえ!“、と言うのです!(ここだけの話、彼の本当の本心というものも、何となく伝わるものがあるから!)
ああいう酷い言葉を浴びせていたら、私自身に何かがフリかかって来るのかもしれないが...
ヤツの守護霊さんか、○○先生が言わせているのかもしれない?
とにかく、その先生の残された祈りの道、全託の道をああして歪め、迷わせるような言動にはアタシャ、ガマン出来ないのです!
これ、私の本心?
何が私の本心かは読者の判断にお任せしよう...
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もう、黙っていられない!

2024-03-26 10:05:49 | 雑感
*これから書く記事を読んで、気分を害する人が居るかもしれません。
そう感じる方はどうかスルーして下さるように!

このブログにたまに“Z“とかいう人が、一方的に的を得ていない、中身の無い議論をふっかけて来て、全く噛み合わない、不毛な議論の場へ引きずり込もうとするコメントを寄せてくることがあります。
私はただ不愉快な気分にさせられるだけなので、そんなヒマ人の挑発などに乗る気など一切ありません。
ああいうヘンな虫が寄りついたなら、フマキラーでしゅっ、とやる(ブログ主の特権で消してやるのです!)に限ります。(何度も、“もう来るなよ!“と遠回しに意思表示をしているつもりなのですが!...)
そういう迷惑を被っているブロガーはどうも私だけでは無さそうで、中にはそれがもとで、ブログ続けるのを止めてしまった方も居られるかも知れません。
そう考えると、もう黙っていられない!
もっとも、こういうことに巻き込まれてしまうのも、ブログをし続ける上での宿命なのでしょう?
この御仁、どうもこのように、多くの人から疎んじられ、嫌われているようです。
そしてその鬱積した、マイナス感情からそういうことをしてしまい、さらにそれを繰り返して、ますます疎んじられるというループにはまっているようです。(それも全く独りよがりの論法ばかりで相手にはよく伝わらない始末なのです)
この人内心では、構って欲しい、寂しいと思っているのではないですか?
挑発的な、強がりな言動からは、そのような弱さが見え隠れしているようです。
そういう鬱積した感情は、ああいう感情論に走るのでなく、そのまま、感じたままの内心を吐露してはどうなのでしょうか?
そういう場を見つけたらどうでしょうか?(無いの?、少なくとも今のままでは、あなたの場所は段々無くなるでしょう?)
そのような発言なら、(たまには)付き合ってもいいと思っているのですが!
自分の弱さを吐露することというのは、決して弱いことじゃありません。
むしろ逆ではありませんか?...自我心に囚われた多くの人間には出来ないことなのです!
自分の思い、力を超えてそうさせるもの無しには出来ない、と言ってもいいでしょう。
そして、そのものに、ありのままの自分に向き合うならば、光が差し込むかもしれないのです!
私はそういうことをずっと書いているのですよ。
そして、又直近では、どこにも落ち着かない不毛な、人を不愉快にさせるだけのような議論とか、頭のことばかり偏重されることの歪みについて書いているのですよ!
だのに、なんだ、あのコメントは!(見せしめのため、ムゲに消すんじゃなかったかも?)
私は自分が書いていることがいつも正しいとは思っていないし、理解してもらえるとも思っていません。
だけど、読む気が無いのならどうぞお引き取り下さい!
二度と来るな!
ホント、腹ん立つ!...だから、“しゅっ!“と...
しかし、こう書いてみて、ちとは気分が晴れたようで!(私だけか?)

外にはは無常の雨が...






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人を殺して何故悪いのか?

2024-03-24 09:37:22 | 雑感
五木寛之先生は、随所で現代の知性の偏重により、感情、感性が蔑ろにされることから起こる歪みについて言及されています。
少し前、“人を殺して何故悪いのか?“、といった議論が巷で話題になったことがありました。
そこで、何か結論らしきものが導き出されたのか、どうかは分かりませんが、結論というもの自体がそうであるように、このことが考えることで決着されてしまうようになってしまうならば、もう人間は落ちるところに落ちてしまうより仕方なくなるでしょう。
又、こういうことが一般論として通用してしまうようなら、その社会も先が見えているではありませんか? 
これが議論されて、話題になることそのものが、その知性偏重の歪みを浮き彫りにしているように思えてなりません。
このことは、一人一人の現実に向き合わなければ、絶対に何も分からないでしょう。
あなたは、リアルにその状況を思い描いて、現実にその手で平然と人をアヤめることが出来るのか?...こう問われれば答は自明ではないか?
そりゃあ、誰だって一瞬、カッとなったら分からないけど、躊躇するものは感じるでしょう。
それは多くの場合、法に触れる、その裁きを受けることが頭に過るからでしょう。もうほとんどこれは刷り込まれていると言ってもいい。
でも、それだけでしょうか?
私は夢の中で、妙な言い方ですが、実にリアルなシチュエーションの下で、先のようにカッとなって、人を殺してしまったことがあるのです。
最初に過ったのは、やはりと言うか、“ヤバイ、見つかる、つかまる、何とかしなきゃ!“、というものなのでした。
しかし、いくらか気分が落ち着いて、自分自身に帰って、その目の前に無残に横たわる亡骸を目にして...
これは、もう自責の念といったものでは説明の付かない、全身全心全霊を覆うような、自責の感情は勿論、悲しみ、哀れみ...それはもう、こちらの思いを超えたものから来るようなものとしか言いようのない感覚だったのです。
言うなれば、それはあの愛、安らぎと隣り合わせのようなものです。
“ああ、私はあの掛け替えのないものに手をかけてしまったのだ!“...
この感情、感覚はまったく思いも寄らないものだったのです。
これは、考えること、抽象論なんかでは絶対に、永久に分からないものなのです!
このように、人間の行動を決定づけるものは、言うまでもなく、考えて得た結論なんかでは無いのですよ!
何で頭で分かっただけのことで、人生が左右されなきゃならんのか?
頭は頷いても、身が、全心身が頷かずしては!...
人生の一大事のことは、あなたが思い、考えているものからは答は見つからないでしょう。自分の思いを超えたものに聞かなければ!
その答はあなたの頭でなく、胸にあるのでしょう?...



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正直の風

2024-01-26 09:54:28 | 雑感
私はいつも寝る時間が早いので、リアルタイムでテレビドラマを観ることがほとんど無いのですが、今続編が放映中の、一寸前評判になった「正直不動産」の動画にハマっています。
ウソばかりついて、不動産会社のトップセールスマンになった主人公が、空き地に建てられていたヘンな祠のようなものを壊した祟り?で、正直にさせる風が吹くとウソをつけない人間になってしまうという物語です。
“ううう~っ“、っと、その変貌ぶりを観ている度に、私には何かプノイマ(霊的な風)みたいなのが吹いて、“あれ“が想起されてくるのです!
そう、頭のてっぺんからつま先まで何かが吹き抜ける感じです。
私は、知ってる人なら皆知ってるウソつき人間。でもあの風が吹くとウソがつけなくなる!...まずは自分自身に!
ああ、もうたまりません!...あの風にあって、もはや自分を誤魔化すことは出来ない!、自分のすべてを投げ出したい!、ぶっ放したい!...カイカ~ン(ワカル?)
例えば“正直国会議員“何ていうのは、一寸現実離れし過ぎの感がしますが、“正直牧師“だったらすぐストーリーを思い付きそうです。
“さあ、皆さん、聖書の神のみ言葉に従って、イエスを信じましょ...って(これが私のいつもの快感なノリなんだな!)、人間が言ってて、人間が書いた言葉じゃないか!、イエス何て会ったことも無い、数千年前の、異国の人なんか信じられるかってんだ!“...ってな調子で...
私は牧師は勿論、平信者でも、いや信者自体でも無いですが、昔東京の三田にある「キリスト友会」(フレンド、通称クエーカー)に通っていたことがあり、長いブランクがあり、それから数年前、又やって来て、それも短い間でヤメてしまいました。
その理由は、会全体を覆っている、その本来の自分に直接する神(“内なる光“と言われる)に意識を向けることなく、“私はこう考える“、という人間的な思念に聞こうとする傾向に生理的に受け付けないものを感じたためです。
昔の時も何回かありましたし、数年前はもっと堪えるのが困難な感じになっていましたが、私は自分の、いやあの思いを越えた“正直の風“にあって、あくまで未遂レベルですが、何かをぶっ放したことがあるのです。(唯一未遂でない、爆発レベルとなったのは、状況は違いますが、数十年前「大調和協会」でありました)
今度又、友会に行ったら、この調子だと未遂じゃ済まなくなりそうだからヤメときます。(あれは、そのリアクションで思わぬ後始末を背負い込んだりして、リスクを覚悟しないとならなかったりするのです)
こう言ったからといって、何も激高する必要は無いですよ。ただ人間堪えていたものが噴出するにあたっては、多少のそういう激しさ、“熱、圧“を伴うのは致し方ないでしょう。
いいや、というよりか!...(ほら又、“ヒュ~っ“)これは自分の思いとか感情がどうとかの問題じゃなく、あの“正直の風“次第なんですよ!
それに任せるっきゃない!...“そういうものは、自分でコントロールしないと“、って、それがウソつきの始まりなんだ!、一体誰に止められよう!、その風は、自分の思いも力も無であるということを知らせているのではないのか!
別に人に向けることはないけど、少なくとも私は私自身に対しては風任せとならざるを得ません!
私は人にはウソつきでも、自分にはウソをつけない人間なのですから!...
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