私がよく“現臨にある“意識状態と言っているものは、思考機能は後退こそすれ、考えられなくなることはなく、普通に日常生活を送ることが出来、又私にはごく日常的に起こることなのです。
しかし、“神の手に捉えられる“状態というのは、それがもっと意識の中へと深まり、何かもう全身がしびれたようになり、思考機能はマヒするに至るのです。こんなことが日常的に起こってはたまったものじゃありません。
そんな自由を奪われてしまうことなど誰が望むだろうか?...って、そりゃとんでもない、バチ当たりなことですよ!
これは、そうなった人にしか分かりません。第一こちらが自分の思いでそうなろうと望んだってなれる訳じゃない。といって、心の底から望まないと叶わないようでもある...要するにそれが思いを超えた事態ということで、思い、為すことだけが自分のすべてと思っている人間には絶対に分からないことなのです。
そうして、自由に思うことを奪われてみて初めて分かる!...何とそれまで思考に縛られ、囚われていたということが!...
逆説的ですが、かくも自由というものを実感することは無いのです。そして自分の思いの外では、心からこれを望んでいたということが分かるのです!
この状態には、例えば、自分が後生大事にし、囚われている信念、信仰、主義といったもの、勿論ネックとなる悩みごと、疑いごとなどあらゆる思考のしがらみ、絡みから自由でなければ、与ることは出来ません。
だから、自らそういう思いのトラワレ状態に身を置こうとする、所謂狂信者には開かれることは無いと言えるのです。そのトラワレの苦しみを自覚することが出来ないのだから!
その自覚のある人は、心の奥の声を聞くことが出来るでしょう。
ですからね、神の手に捉えられる、という恩寵に与る条件は、思いから自由であることなのですよ!
って...あれ、おかしいな!...神に捉えられるから思いの縛りから解放されるんだった!
これは、それでも思い、為そうとする、悲しいサガを持った人に譲歩してそう言ったまでです。
私は何も思考すること自体を否定している訳じゃないのです。考えたら分かるでしょ!
思考が無ければ普通に日常生活を送れない、人生を生きることは出来ないのです。
しかし、思い、為すことだけが人生じゃないのですって!
人生のどこかで、何も考えられなくなるほど魂が揺さぶられ、生の燃え上がるような輝く瞬間に出会うこともある...その時は自由に思考する力を失い、その掴んでいた手を離さざるを得ないことになる...ということは、人間誰でも心のどこかで思って...否望んでいるのではないでしょうか?
神の手に捉えられる自由は何人も侵すことは出来ません。
神の手がかかれば何人も逃れることは出来ないのだから!
しかし、“神の手に捉えられる“状態というのは、それがもっと意識の中へと深まり、何かもう全身がしびれたようになり、思考機能はマヒするに至るのです。こんなことが日常的に起こってはたまったものじゃありません。
そんな自由を奪われてしまうことなど誰が望むだろうか?...って、そりゃとんでもない、バチ当たりなことですよ!
これは、そうなった人にしか分かりません。第一こちらが自分の思いでそうなろうと望んだってなれる訳じゃない。といって、心の底から望まないと叶わないようでもある...要するにそれが思いを超えた事態ということで、思い、為すことだけが自分のすべてと思っている人間には絶対に分からないことなのです。
そうして、自由に思うことを奪われてみて初めて分かる!...何とそれまで思考に縛られ、囚われていたということが!...
逆説的ですが、かくも自由というものを実感することは無いのです。そして自分の思いの外では、心からこれを望んでいたということが分かるのです!
この状態には、例えば、自分が後生大事にし、囚われている信念、信仰、主義といったもの、勿論ネックとなる悩みごと、疑いごとなどあらゆる思考のしがらみ、絡みから自由でなければ、与ることは出来ません。
だから、自らそういう思いのトラワレ状態に身を置こうとする、所謂狂信者には開かれることは無いと言えるのです。そのトラワレの苦しみを自覚することが出来ないのだから!
その自覚のある人は、心の奥の声を聞くことが出来るでしょう。
ですからね、神の手に捉えられる、という恩寵に与る条件は、思いから自由であることなのですよ!
って...あれ、おかしいな!...神に捉えられるから思いの縛りから解放されるんだった!
これは、それでも思い、為そうとする、悲しいサガを持った人に譲歩してそう言ったまでです。
私は何も思考すること自体を否定している訳じゃないのです。考えたら分かるでしょ!
思考が無ければ普通に日常生活を送れない、人生を生きることは出来ないのです。
しかし、思い、為すことだけが人生じゃないのですって!
人生のどこかで、何も考えられなくなるほど魂が揺さぶられ、生の燃え上がるような輝く瞬間に出会うこともある...その時は自由に思考する力を失い、その掴んでいた手を離さざるを得ないことになる...ということは、人間誰でも心のどこかで思って...否望んでいるのではないでしょうか?
神の手に捉えられる自由は何人も侵すことは出来ません。
神の手がかかれば何人も逃れることは出来ないのだから!