人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

神の手に捉えられる自由

2024-06-23 09:22:45 | 覚醒
私がよく“現臨にある“意識状態と言っているものは、思考機能は後退こそすれ、考えられなくなることはなく、普通に日常生活を送ることが出来、又私にはごく日常的に起こることなのです。
しかし、“神の手に捉えられる“状態というのは、それがもっと意識の中へと深まり、何かもう全身がしびれたようになり、思考機能はマヒするに至るのです。こんなことが日常的に起こってはたまったものじゃありません。
そんな自由を奪われてしまうことなど誰が望むだろうか?...って、そりゃとんでもない、バチ当たりなことですよ!
これは、そうなった人にしか分かりません。第一こちらが自分の思いでそうなろうと望んだってなれる訳じゃない。といって、心の底から望まないと叶わないようでもある...要するにそれが思いを超えた事態ということで、思い、為すことだけが自分のすべてと思っている人間には絶対に分からないことなのです。
そうして、自由に思うことを奪われてみて初めて分かる!...何とそれまで思考に縛られ、囚われていたということが!...
逆説的ですが、かくも自由というものを実感することは無いのです。そして自分の思いの外では、心からこれを望んでいたということが分かるのです!
この状態には、例えば、自分が後生大事にし、囚われている信念、信仰、主義といったもの、勿論ネックとなる悩みごと、疑いごとなどあらゆる思考のしがらみ、絡みから自由でなければ、与ることは出来ません。
だから、自らそういう思いのトラワレ状態に身を置こうとする、所謂狂信者には開かれることは無いと言えるのです。そのトラワレの苦しみを自覚することが出来ないのだから!
その自覚のある人は、心の奥の声を聞くことが出来るでしょう。
ですからね、神の手に捉えられる、という恩寵に与る条件は、思いから自由であることなのですよ!
って...あれ、おかしいな!...神に捉えられるから思いの縛りから解放されるんだった!
これは、それでも思い、為そうとする、悲しいサガを持った人に譲歩してそう言ったまでです。
私は何も思考すること自体を否定している訳じゃないのです。考えたら分かるでしょ!
思考が無ければ普通に日常生活を送れない、人生を生きることは出来ないのです。
しかし、思い、為すことだけが人生じゃないのですって!
人生のどこかで、何も考えられなくなるほど魂が揺さぶられ、生の燃え上がるような輝く瞬間に出会うこともある...その時は自由に思考する力を失い、その掴んでいた手を離さざるを得ないことになる...ということは、人間誰でも心のどこかで思って...否望んでいるのではないでしょうか?
神の手に捉えられる自由は何人も侵すことは出来ません。
神の手がかかれば何人も逃れることは出来ないのだから!

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本当の自分、真我、本心

2024-06-20 10:10:22 | 覚醒
もうホントに、悟りとかワンネスとか、何かの体験と結びつけられ、今の現実から離れた何かになることを想起させてしまう言葉は使いたくない!
本当の自分、真我という言葉もそう...
あなたは今の自分から離れて真我になるのか?...それは、肉体次元を超えた霊的に進化した自分なのか?
過去からずっと、この先もずっと何かの修行をし続けないと、その境地に達することが出来ないのか?
それは、とんでもなく顛倒した見方とは思わないか?
覚醒というのなら、目を覚まさなければならないのは、そう思っている今のあなたのことではないのか!
他から吹き込まれたであろう観念、信仰、修行方法...又は、自分が考えて得たであろう信念、思想...そんなに後生大事なものなのだろうか?
それが無かったら、あなたはあなたで無くなるのだろうか?
そのように思わせているものは、メンツやプライドといったものでは無いのか?
それを意地になって主張したり、守ろうとしているのはあなたの本心なのか?
本心!...それは進化したとあなたが夢想している真我の如きものじゃない!
今のあなたから離れては絶対にあり得ない!
ありのままの自分!...それが如何にダメで、ミジメで悪い自分だろうと(それを見まい、認めまい、受け入れまいとするために夢想したり、正しい!信念を持とうとするのだろう?)...受け入れなければならない!
それは、正にあなたがそう思っている、考えているだけではないのか?
本当のあなたは、今までも今もこの先も、ずっとそれを超えて生き続けている...
今のあなたは、本当は何を感じているだろうか?
考えてはならない、感じてみる...自分の本心を!
“私は、長年の修行で肉体的な思いもエゴも無くなったのですよ!“...ホントか?
あなたの本心は、そういうエゴを包んだようなことを言うだろうか?
“私はホントはダメで、ミジメで...“、それは、あなたのエゴの肥大にブレーキをかけるものだけど、それがあなたの本当なのか?
いや、そのようにありのままの現実のあなたの姿を見まいと、フタをしているのは、本当はあなたの本心を受け入れたくないからなのではないのか?
あなたは本当はそれを恐れている!...何故ならば、それを受け入れたらあなたの世界は崩壊してしまうからだ!
本当の自分、真我...それはまだ思い描くことが出来る...しかし、あなたの本心は?
いよいよもって、他は欺いても自分は誤魔化せない!、逃げられない!
あなたが思い描いている世界、信じている世界、自分が何ものかになろうとしている世界...
だから...あなたは今の自分を受け入れたくない、常に先延ばしにセットしている...いつか(もうすぐ先でも遠い先でも一緒!)到達するであろう、進化した自分を夢想しているのだ!
しかし、考え、思い、為そうとする自分、その世界だけがすべてではない!
そんな頭の中にしかないちっぽけな世界、消えてゆく姿のような世界など崩壊しても構わんではないか?
本当の、本来のあなたの世界、本心が開かれるのならば!...

というようなことを、あなたから見れば他人である私がどやこや言ってたって始まらない...
全くもってあなたの本心、あなたの神に聞かなければ!...

しかし...あなたは私、私はあなた!...
あなたに向けて書いているつもりが...ジッツに私の中を揺さぶらずにおれない!...

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悟りと本心開発

2024-06-13 09:22:49 | 覚醒
私は正直、悟りという言葉を使うのを躊躇したいと感じているのです。
まず、その意味合いが曖昧である...そのためかそのイメージが勝手に広がり、膨らみ、あちこちに独り歩きしているようです。
取り分け、それが通常の人間を超えた、高い、進んだレベルに達するようなことに結びつけられることが問題なのです。
そういう方に思いを向かわせるものは、ほとんどエゴ.マインドだと思って間違いないでしょう。思考マインドから離れなければ(無くすということでは無い)けっして、そういうものが開かれることは無いのですよ!
このことが疎かにされたら、シャカの境地とは真反対の頭が、いや人間そのものが“おシャカ“になるであろうことは目に見えているではありませんか?
又、悟りのことを覚醒と呼ばれたりもされて、これも先の理由で、同じものなのかどうか見解が分かれたりするのですが、それは全くもって“目覚めた!“、という感じを伴うものなので、的を得た表現ではあります。しかし、これにもエゴをくすぐらずにおれない、“完全覚醒“なんてのが付いて回る...そういう思いから目覚めることにも関わらず!...
一方で、五井先生などはよくこれを“本心開発“と呼んでいました。本心が開かれること...要するに本心の目覚めということでしょう。これは実にピッタリと来るものが感じられます。
何しろ、思考マインドがどんなに悟りを開くことを望んでいても、本心の意向無しにはそれが開かれることは無いのですから!
これは先のことが何故問題となるかについて、自明に分かることではありませんか?
本心の方は表に顕わになろう(これでない悟り、目覚めというものは無い)としているのに、表の思考の方がエゴに囚われていたり、やり方を間違えていたりして、その道が塞がれたりする...これが多く、自分はいくら悟ることを望んでいてもそうならない理由なのでしょう。またそうなるには、本心が知っている相応の時節というものもあります。
つまり、いくら悟りのテクニックを身につけ、修行を続けようと本心にかなわなければ無駄なのです。
だから、あなたは本当にその所謂悟りに与りたいのか、エゴマインドを満足させたいだけなのか、あなたの本心に聞けばいいのです。本心とは、“あなたの神“のことでもあります。
もし、それが本心から来るものなのであれば、それはあなたの思いを超えて、どうあっても、こうあっても避けられない運命として、然るべきタイミングであなたに訪れるでしょう。
本心、神に聞く気のない、思考マインドだけに支配されているような人間は...人生がおシャカになるのがオチなんだからその道は諦めるしかないでしょう!...精々祈るしかないだろう!
それが本心、神に聞くということなんだ!
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目の前に現前すること

2024-05-18 09:29:44 | 覚醒
ユーチューブで、玉城康四郎先生の悟りというか、覚醒体験のことが取り上げられていたのですが、かなり曲解しているところがありました。
それによると、先生の目の前に突然ダンマが現れ、それが段々近づき、皮膚に浸透して来て、やがて中に入って一つになったのだと言います。
いや、先生によると、ダンマが顕わになるというのは、中から(これは、肉体からということでなくて、実存的な内奥といったものでしょう?)なのではなかったか?
第一、先生はダンマというものを、そのように対象的に見たり、思い描けるような実体としては一言も言っていなかったはずなのです。
この術者は、自身のその何か光の玉のようなものがそのように、自分の中に入って一つになったという悟り体験?を先生の体験と結びつけて、そのようなものが悟り体験の原型である、と述べているのでした。
この人は、実際に玉城先生と会ったことがあるそうなのですが、そのことは、直接先生から聞いた訳でも、著書を読んで確かめたことも無いと言うのだから、随分いいかげんなものだし、先生のダンマの顕現による”目覚めの原態”とは大部かけ離れていると言う他ありません。
私の場合はと言うと、突然目の前に霊的存在が現れ、段々近づいて来て、一つになった...だから、そういう描写も出来ないことも無いですが、それじゃまるでそういう心霊現象が伴うものみたいに誤解されてしまいますよ。
神的、霊なるものの現臨、現前とは、本質的にそういう対象的にある実体を見ているようなことではなく、主体、客体も超えて一つになっている、そうした表層に隠れていた意識が顕わになるようなことです。
そして神的超越者と実存的内奥が一つになる...
言い換えると、これが重要なことで、表層の思考が超えられ、後退させられることに他ならないのです。それは端的に対象的な認識が超えられることで示されると言えるでしょう。
考えている自分は、先のように霊的存在が現れ...などと描写することも可能ですが、それを目の当たり(これが、”現前”というもので言い表せるものでしょう?)にしている渦中においては、まずどうしたってそういう霊的”実体”を在るかのように言い表すことは不可能なのです。
私は悟ったことなど無いので、これが悟りの原型とか、大それたことなどとても言えないですし、感じ方、表現は色々あってもいいとは思うのですが...少なくとも、そこに何か現象的に見えるとか、聞こえるとか、自分の力で何かを為し得るとか、要するに思い、為す自分が超えられていない心的状態をそれに当てはめることは出来ません。
取り分け、単純に心霊現象的なことは、ヘンな現象が続出するなどするから、超えないとダメだろうと思うのです。
それにしても動画配信というものは、いいかげんなものが多いです。
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全託出来る人はいない

2024-03-17 09:46:23 | 覚醒
あの反面教師は、どうしていつもいつも私がツッコミを入れたくなることを書いているのか?
そういう因縁があるからなのでしょうが、これは大体同じ頃(40年くらい前)から傾倒するようになった、五井先生絡みのことが多いのです。
五井先生は祈りによって、全託の道が開かれることを説いていました。
それでこの御仁、“全託の真意“などと、さも自分が全託を究めました、と言わんばかりに分かったようなことを書いているのですが、そんなこと軽々しく言えたものじゃ無いのです!
よく考えたら分かるではないか?...全託しようと思い、やろうとして出来る人などいない、ということが!...
全託したら、自分の信念だとか、為そうとする力が出てくるのだと言う。...そもそもそういうものに寄りかかっている人間に、全託の契機が開かれるだろうか?
全託とは、自分を超えたものに明け渡すことと言ってもいいでしょう。
それは、例えば自分のその長い信仰や修行など、自分が積み重ねて来たことを全否定されても構わない、といった決定が生まれたりすることでもあるのですよ!...無駄に長い修行などそうなっても本望ではないか?(生まれ変わって新たに頂き直すことで、どんなに幸福に与れることか!)
といっても、それはその神的なものがそのようにさせる(そういう場合もあるかもしれない)ということではありません。とにかく、自分が思っていたもの、為して来たものとは、ぶっ超えたものに出くわすことで、自ずから自分の手を離さざるを得なくなるということなのです!
思いが超えられる、開かれる...これに反して、この御仁は思い、為そうとする自分が全託のことを分かったかのように、思考マインドに取り込み、閉ざしてしまっているようなのです。
ああ、もう私は寒心に堪えないものを感じてなりません。...
エラそうなこと言ってますが、勿論私は全託のことは分かっている...なんて言える訳ありません!
先の理由で!...これは悟りということと同じでしょう。
“私は全託出来ます、悟りました“、なんて自分で言っているのは、それとはまるっきり遠い状態であるのを自らバクロしているようなものではないか?!
その先にあるものは魔境みたいなものしか見えて来ません。
最終解脱だの、完全覚醒だの、ただ”与る”ということに何でゴールのようなものなどあり得ようか?...だからそれはただそう考えられているだけなのです。
いつも言っているように、そうさせるもの無しに絶対にそうならないのです。私はその前には無化されるのみ...“私は無になりました、達しました...はあ、全託の真意が分かってます!“、なんて言っているバカはどこに居るのか?

私は五井先生との出会いが精神的な道の原点であるだけに、どうしてもああいう言説は看過することが出来ないようなのです。
あの御仁とは、約二年ほど五井先生について共に学んだ仲なのですが、ある日私が「五井先生が説いている全託の道というのは、あらゆる宗教的な道に通底しているものでしょう」と言ったら神妙な顔してメモなんかしていましたが、それも何にもならないのか?
いやもう、本当に何を学んだなのか、どうしてこうもズレてしまうのかが、てんでに分かりません。
私は、そういう悔しさをぶつける、という消えてゆく姿をさせられているのは確かなことではあります。



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