人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

分からないことはあるかもしれない

2021-06-14 11:59:28 | スピリチュアル?
神は、実体あるものとして実在するのかどうかは分からない...
霊界や死後の世界も実在するかどうかは分からない...
こういう確証の無いことを、実在するものとして、予断として受け入れてしまうことは、自己の実存的在り方を空疎なものにしてしまうのに他ならないのですi
その他、例えば聖書に書かれてあることや、OO先生の教えのみが正しいとする強固な原理主義、狂信的在り方...ここからは実存が深められ、開かれて行くことなど望むべくもないのですi
だから私は、絶対に、ゼッタイにかかる人間精神を狭め、歪め、腐らす在り方なんぞに迎合する訳にゃいかないし、多くの人間をその陣地へと引き入れ、巻き込まんとする、安易な宗教、オカルトなんか認めやしないのですi...
なーんて、そんなことも無いですけどね...私は神を実体あるかのように説く宗教も、オカルト的な話も頭ごなしに否定したりしません。
とにかく、分からないということは、"あるかもしれない"ということなんですからね。
私が受け入れ難いことというのは、その不可知的なものを絶対視し、自由な精神の在り方を否定するような偏狭的、独善的教説なのです。
そうでなければ、これは前言を全く逆手に取ったような言い方ですが、極端な話、なんでもありでいいと思っています。
こういう訳で、原理主義的キリスト教なんかは一寸生理的にムリですけど、もっとユルい宗教的集団でしたら、受け入れられるし、実際関わったこともあります。中国の道院とか。
そこではキリスト、シャカを初め、世界の代表的宗教の教祖の上に、"老祖"なる万教の根源主たる超越神を奉祀しているのです。
勿論、そういう神が本当に実在するかどうかは分からないのですが、ただ、それは相対的宗教の在り方を超える、一つのモデル、仮の現れとして(実際にそういう説明もあったと思います)考えられたものだという風に私は理解しておりました。
しかし、中にはそれを短絡的に信じ込んでしまって、例えばイエスの話をしていたら、"我々はその上なんだからi"(これはモロ相対観の表れ)と言い放つ人も見受けられたのですが、それはごく一部の者であって、そういう思いが集まり全体を支配している訳ではないことは、何となく分かるのでどうってことないのです。(ただ、それが私に直接向けられたのなら、ただじゃ済まないことになるかもですが...)
この他、私の昔からの愛読書には、"天之日月之神"なる、その書以外では聞いたことのない神様の自動書記によるお告げ~"日月神示"、エササニという聞いたことない星からやって来たというエンティティー(霊体?)による、チャネリング.メッセージ~"バシャール"、ある霊媒師にイエスが神がかって講話したもの、同じ人がある交霊会で、古えのマスターが示現してお諭しされたもの~いずれも"マクドナルド.ベイン"の書物など、到底おカタイ学者などには受け入れ難いであろうものもあるのです。
こういうものは真偽の程を判断すること自体、ナンセンスに思えるくらいで、そんな堅苦しい精神で接したら、多分その伝える内実に触れることは難しいと思われますよ。
これらに私の内部にあるものが共振したこともあります。それはその霊体のようなものが私に乗り移った、という意味じゃ勿論ありません。その語られたものを通して、言葉を超えたあるものが私の内部を揺すぶったということです。
このように、言葉や人物、形あるものに囚われてしまうか、それらを仮現したもの、媒介となるものと観るか(これにより、強固な実体信仰に陥らなくなる)、というところに狂信者になってしまうかどうかの分かれ道が存するのでしょう。
要するに、意識が開かれているか、どうかということに尽きるでしょう。
真理の媒体というものはどこに転がっているか分からないものです。石ころが、草木が真理を叫ぶことだってあり得るかもしれないのです。
分からないですよ~...分からないことはあるかもしれない...。
コメント
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