人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

言葉は諸刃の剣

2021-06-27 09:17:59 | 哲学・思想
人間の生活には言うまでもなく、言葉というものが不可欠です。
ことに社会生活においては、この言葉が如何に絶大な影響力を持っているかが知られるでしょう。
我々は、言葉に支配されていると言ってもいいでしょう。その本来の役割は、コミュニケーションのための道具であるにも関わらず...
言葉は、その伝えようとするものの象徴に過ぎないのです。
逆に言えば、その内実あっての象徴とも言えるのです。
"コトバは神と共にあった"(ヨハネ伝)
私は、この言葉が内面生活にあっても、いやそれにあってこそ、多大な啓発をもたらすものであることを感じざるを得ません。
例えば神という言葉。人が聞けば、"何だ神かi"で終わってしまうのかもしれませんが、パッと"神i"と意識されるだけで、"現臨"が降りて来て、思いが離れて"実存"が開かれるようなことに...
この文章だけで、どれだけ言葉に言い表せない象徴語が使われていることか...すべて"神"の一語に内包されているものの消息を伝えているものなのです。
何千、何万語をも費やされねばならないことを、この一語で言い表しているに他ならないのです。
これは、瞑想や祈りにあっての、ある種のマントラにもなり得るものでしょう。
単に神という言葉を思い浮かべ、発したとしてもそういうことにはなりません。これは"意識される"ということがミソなのです。
形としての言葉だけで、"言葉される"だけだったら、"神とは何ぞや?"、だの"どの神様のことか?"なんてことが取り交わされ、ずっとどこにも行き着かず、考えばかりが堂々巡りするだけでしょう。
ここで重要なことは、内実をもったものが内観されることなのであり、字義のことは二の次なのです。
この内実は、言葉を超えた意識の領域にある...私の最近の流行語(?)"実存開明"は、正しく意識の開明と結び付いていると言ってもいいでしょう。
言葉は実に思いを超えるか、否かということを巡り、我々の精神生活の決節点ともなるものと言えます。
言葉の奴隷となるか、言葉を超えた現存に与るか...諸刃の剣という他ないでしょう。
コメント
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