私はこれまで、“祈り、瞑想が深まり、思いを超えた、神的なものと共にある感じになっている状態には、愛、安らぎがある“、ということを何度も言って来ました。
しかしそこには、落とし穴というものが無い訳でもないのです。
それは、“いつまでもその愛、安らぎを感じていたい“、という思いに囚われてしまうということです。
それは、私自身も陥りやすいことなのですが、この悩み、苦しみの絶えない世の中を生きている中でのことで、無理も無いことのようにも思えるのですが...
しかし、それが自然に自分の思いを超えたもの(神)から与えられたものであれば、そこから自分から離れてしまう、というのも不自然なことで、そういう神の恩寵は受け入れるしかないことでしょう。
これは、自分の思い、欲望を介在させて、その状態に酔いしれ、執着してしまうようなことを言っているのです。
又、瞑想修行に熱心な人などは、そういう神の存在とか愛、安らぎを感じている状態は、究極の悟りの境地に至る、まだ中途の段階なので超えなければならない、とか思ったりするかもしれません。
しかーし...よく考えてみて下さい。何が究極の悟りの境地なのかは知りませんが、そもそもどうやって、何に依って自分の思いを超えることが出来た、というのでしょうか?
その中途の段階らしい状態を超えて、究極の境地を目指そうとするのは、どうやって、何に依って為され得るというのでしょうか?
“自分の力で!“、というのなら“じゃ、やってみろ!“、という他ありません!
自分の力で、自分の思いを超えた、と言ってる人は、ずっとそう“思っている“人なのでしょう!(観念の世界で思い描いている神の存在などは、超えなければならないのは言うまでもありませんよ!)
“超える“、ということは、どこまでも自分の思いを放てきし、そう為さしめるものに開き、ゆだねることではないでしょうか?
そして、もしかして神を超えた、愛、安らぎを超えた境地というものもあるのかもしれません。
なるほど、神というものは、神に対峙する自己、あるいは神ならざるもの、愛、安らぎは、憎しみ、苦しみというものの裏返しであり、相対的なものとも言えるのかもしれません。
そして、神も自分も無く、苦しみは勿論愛、安らぎも無い、究極であるような境地というものもあるのかもしれません。
だけど、本当に、リアルにそういう境地がどんなものかを考えてみて下さい。
私は一時的なものでしたが、そんな状態に陥入ったことがあるのですが(正に陥入ってしまったと感じたのですが)、それは、何に対しても無反応な、人間的な機能をすべて無くしたような、生ける屍のような状態なのですよ!
僅かにそうなっている自分のことは意識されているだけなのです。だからそこから抜け出ることが出来たのでしょう。
インド辺りでは、自覚意識の無いその状態から抜け出せないまま、食べることも出来ずに餓死してしまうという例もあると言います。
私は神的なものに依って導かれない、開かれない瞑想修行の行き着く先(究極)は、こういうものだと思っています。
神無しにそうなってしまうというのは、どうしても感じられて来ないのです。
何故ならば、神と共にあることは、愛、安らぎ、そしてリアリティと共にあるものだから!
先の相対観について、神が在ることは、自己と分かれることも無く、絶対的なものと言えるものであり、又自分の思いを超えているということ自体がそういうものと言えるのではないか、と感じてならないのです。
そして、そこからもたらされる愛、安らぎというものは、苦悩といったものとの相対性を超えて、皮相的な幸、不幸な状態を超えて、その根底にあって揺るぎないものとしてあるもの、絶対的なものように感じています。
霊性の道が深まる、進むとはどういうことなのか?
それは、どこまでも自分の思いを超えて、その超えたものに意識を開いてゆくことなのではないでしょうか?...
しかしそこには、落とし穴というものが無い訳でもないのです。
それは、“いつまでもその愛、安らぎを感じていたい“、という思いに囚われてしまうということです。
それは、私自身も陥りやすいことなのですが、この悩み、苦しみの絶えない世の中を生きている中でのことで、無理も無いことのようにも思えるのですが...
しかし、それが自然に自分の思いを超えたもの(神)から与えられたものであれば、そこから自分から離れてしまう、というのも不自然なことで、そういう神の恩寵は受け入れるしかないことでしょう。
これは、自分の思い、欲望を介在させて、その状態に酔いしれ、執着してしまうようなことを言っているのです。
又、瞑想修行に熱心な人などは、そういう神の存在とか愛、安らぎを感じている状態は、究極の悟りの境地に至る、まだ中途の段階なので超えなければならない、とか思ったりするかもしれません。
しかーし...よく考えてみて下さい。何が究極の悟りの境地なのかは知りませんが、そもそもどうやって、何に依って自分の思いを超えることが出来た、というのでしょうか?
その中途の段階らしい状態を超えて、究極の境地を目指そうとするのは、どうやって、何に依って為され得るというのでしょうか?
“自分の力で!“、というのなら“じゃ、やってみろ!“、という他ありません!
自分の力で、自分の思いを超えた、と言ってる人は、ずっとそう“思っている“人なのでしょう!(観念の世界で思い描いている神の存在などは、超えなければならないのは言うまでもありませんよ!)
“超える“、ということは、どこまでも自分の思いを放てきし、そう為さしめるものに開き、ゆだねることではないでしょうか?
そして、もしかして神を超えた、愛、安らぎを超えた境地というものもあるのかもしれません。
なるほど、神というものは、神に対峙する自己、あるいは神ならざるもの、愛、安らぎは、憎しみ、苦しみというものの裏返しであり、相対的なものとも言えるのかもしれません。
そして、神も自分も無く、苦しみは勿論愛、安らぎも無い、究極であるような境地というものもあるのかもしれません。
だけど、本当に、リアルにそういう境地がどんなものかを考えてみて下さい。
私は一時的なものでしたが、そんな状態に陥入ったことがあるのですが(正に陥入ってしまったと感じたのですが)、それは、何に対しても無反応な、人間的な機能をすべて無くしたような、生ける屍のような状態なのですよ!
僅かにそうなっている自分のことは意識されているだけなのです。だからそこから抜け出ることが出来たのでしょう。
インド辺りでは、自覚意識の無いその状態から抜け出せないまま、食べることも出来ずに餓死してしまうという例もあると言います。
私は神的なものに依って導かれない、開かれない瞑想修行の行き着く先(究極)は、こういうものだと思っています。
神無しにそうなってしまうというのは、どうしても感じられて来ないのです。
何故ならば、神と共にあることは、愛、安らぎ、そしてリアリティと共にあるものだから!
先の相対観について、神が在ることは、自己と分かれることも無く、絶対的なものと言えるものであり、又自分の思いを超えているということ自体がそういうものと言えるのではないか、と感じてならないのです。
そして、そこからもたらされる愛、安らぎというものは、苦悩といったものとの相対性を超えて、皮相的な幸、不幸な状態を超えて、その根底にあって揺るぎないものとしてあるもの、絶対的なものように感じています。
霊性の道が深まる、進むとはどういうことなのか?
それは、どこまでも自分の思いを超えて、その超えたものに意識を開いてゆくことなのではないでしょうか?...