このブログを書くようになってからの私は、あまり表に立たずに、影でこそこそと呟いたり、画策してるかと思うと、"出そうかな...いや、どうしようかな...あ、出ちゃった、もう、いいや..."と、隠れたものが表に現れる時節に任せているところもありで、この二つの有り様の前に、いつも心は揺れ動いているようなのです。
最近、五井先生を長く信奉している二人の方のブログで、ほとんど同時期に全く今日の宗教、スピを取り巻いている精神の在り方を正反対に映し出しているように感じる記事を読ませて頂きました。
一人は私が個人的に知ってる人で、五井先生の言葉を借りて"宗教の本来の在り方は、自己の本心を開くことにある"と言い、自らを信じることから離れて、他の言いなりになったり、他の精神を操ったり(マインド.コントロール)する道は本筋ではないと、もっともらしいことを言っているのです。
ところが...この御仁ときたら同じ口から他のオカルト、陰謀論に勝手にハマり、何ら自らの悟性に照らされることのない、"そう、聞いています... "式の受け売りの教説をただ、横から横へ流しているだけなのです。
それによると五井先生の教え以外はフリーメーソンに牛耳られており、それから抜け出す道は"世界平和の祈り"を祈り続けることなのだと言う...オウム真理教が自分たちを棚に挙げて、盛んに"我々は宗教ではありません。フリーメーソンの謀略に騙されてはなりませんi"と叫んでいたのを思い出すではありませんかi こんなカルト教をバカの一つ覚えの様に繰り返していることなど、書いてる私が恥ずかしくなってきます。
安易に他の教えに迎合し、精神を支配されるがままになっているのは、言うまでもなくこの当人なのです。何で小学生でも分かりそうなこんな道理が分からないのでしょうか?
この人からは、"自分自身に向き合う"という心の姿勢が全く感じられません。そこに感じられるのは、多くの組織宗教に取り巻いている集合的思念といったものです。
それにおもねり、それに向かって"皆さん、信じましょうi"とか何かを訴えているのです。それはどこまでも実態の無いヴァーチャルな世界に過ぎず、"本心を開く"ことには結び付きません。ありのままの自分を受け入れられないところに真我の目覚めはあり得ないのです。
他の五井先生の信奉者のために言いますが、すべての信奉者がこんなカルト脳に陥る訳じゃ勿論無いでしょう。
と言って、こうなる要素は全く無い訳でも無さそうです。これはどこまでも一人一人の意識の在り方次第と言うことが出来るでしょう。
もう一人の方は、少し前、白光会を退会した方で、心が重たく、ガンジガラメになった状態から離れようと、祈りなどの行をしてみたところ、鮮やかに克服することが出来たと報告されているのですが、数十年会に入っていた時は一度もそんなことは無かったとのことです。
この方はどうも、その会を取り巻く宗教的、集合的思念を自身が受け付けなくなっていたようで、そこから自由になり、より自分自身に向き合えるように意識が働いたことが、その要因のように感じておられるようです。
この二様の在り方を見るにつけ、現代は信じるだけでいい式の宗教の時代は完全に終焉し、神は何処に居るのか分からない、信じる集団の皆さんじゃなく、一人一人に直覚されるようにハタラキたまうことを改めて示されているようです。
こういう二道が分かれてしまうのは、厳しくも致し方ありません。今後益々その立て分けは激しくなるでしょう。
これは全く他人事でない、自分自身の問題であり、自己の内面を映す鏡のように感じている次第です。
最近、五井先生を長く信奉している二人の方のブログで、ほとんど同時期に全く今日の宗教、スピを取り巻いている精神の在り方を正反対に映し出しているように感じる記事を読ませて頂きました。
一人は私が個人的に知ってる人で、五井先生の言葉を借りて"宗教の本来の在り方は、自己の本心を開くことにある"と言い、自らを信じることから離れて、他の言いなりになったり、他の精神を操ったり(マインド.コントロール)する道は本筋ではないと、もっともらしいことを言っているのです。
ところが...この御仁ときたら同じ口から他のオカルト、陰謀論に勝手にハマり、何ら自らの悟性に照らされることのない、"そう、聞いています... "式の受け売りの教説をただ、横から横へ流しているだけなのです。
それによると五井先生の教え以外はフリーメーソンに牛耳られており、それから抜け出す道は"世界平和の祈り"を祈り続けることなのだと言う...オウム真理教が自分たちを棚に挙げて、盛んに"我々は宗教ではありません。フリーメーソンの謀略に騙されてはなりませんi"と叫んでいたのを思い出すではありませんかi こんなカルト教をバカの一つ覚えの様に繰り返していることなど、書いてる私が恥ずかしくなってきます。
安易に他の教えに迎合し、精神を支配されるがままになっているのは、言うまでもなくこの当人なのです。何で小学生でも分かりそうなこんな道理が分からないのでしょうか?
この人からは、"自分自身に向き合う"という心の姿勢が全く感じられません。そこに感じられるのは、多くの組織宗教に取り巻いている集合的思念といったものです。
それにおもねり、それに向かって"皆さん、信じましょうi"とか何かを訴えているのです。それはどこまでも実態の無いヴァーチャルな世界に過ぎず、"本心を開く"ことには結び付きません。ありのままの自分を受け入れられないところに真我の目覚めはあり得ないのです。
他の五井先生の信奉者のために言いますが、すべての信奉者がこんなカルト脳に陥る訳じゃ勿論無いでしょう。
と言って、こうなる要素は全く無い訳でも無さそうです。これはどこまでも一人一人の意識の在り方次第と言うことが出来るでしょう。
もう一人の方は、少し前、白光会を退会した方で、心が重たく、ガンジガラメになった状態から離れようと、祈りなどの行をしてみたところ、鮮やかに克服することが出来たと報告されているのですが、数十年会に入っていた時は一度もそんなことは無かったとのことです。
この方はどうも、その会を取り巻く宗教的、集合的思念を自身が受け付けなくなっていたようで、そこから自由になり、より自分自身に向き合えるように意識が働いたことが、その要因のように感じておられるようです。
この二様の在り方を見るにつけ、現代は信じるだけでいい式の宗教の時代は完全に終焉し、神は何処に居るのか分からない、信じる集団の皆さんじゃなく、一人一人に直覚されるようにハタラキたまうことを改めて示されているようです。
こういう二道が分かれてしまうのは、厳しくも致し方ありません。今後益々その立て分けは激しくなるでしょう。
これは全く他人事でない、自分自身の問題であり、自己の内面を映す鏡のように感じている次第です。
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