ニューヒロインの誕生から間もなく1年。その加藤桃子女流王座への挑戦者を決める第2期女流王座戦挑戦者決定戦。対戦成績は里見香奈女流名人が6勝で本田小百合女流二段は0勝。
振駒で里見女流名人の先手。初手▲2六歩で居飛車を明示。本田女流二段は得意の一手損角換り1-Ⅰ。先手の早繰り銀に対して四間飛車で受け,右玉のような形に。本格的な戦いが開始されるまで長めの駒組でしたが,先手の指し方はあまりよくなかったのではないかと思えます。

ここで△6五歩と後手の方から開戦。先手は▲3五歩として△4四銀に▲3四歩の取り込み。後手は△5五銀と進出。▲2四歩△同歩▲同飛と交換し△2三歩に▲2五飛。△5四角と打って4五を支えました。そこで▲6七金右と上がりましたが後手は待望の△3六歩。▲5六銀△同銀▲同金△3七歩成と進み,後手が桂得となりました。

まだまだ難しいのでしょうが,駒得しながらと金を作ったのですから後手としては満足できるのではないでしょうか。この後もスリリングな戦いが続いたのですが,最終的には駒損の先手が力尽きる形で後手が勝っています。
本田女流二段が勝ってタイトル初挑戦。本人としてはようやくといったところではないでしょうか。
第二部定理九系が平行論的証明のみによって証明されていると仮定した上で,第二部定理一二は次のように証明されることになります。
まず精神というのは思惟の様態ですから,それは第二部公理三によってある観念によって構成されていなければなりません。そしてこの観念には,第二部定理七系によって,それと同一個体である何らかの対象ideatumが必ず実在するということになります。
次に,この観念の対象ideatumの中に何かが起こるとすれば,その事象の観念というのは神のうちにあるのでなければなりません。これもまた第二部定理七系から明らかであるといえます。
ところで,第二部定理九系が示していることは,もしもある観念の対象ideatumの中に何らかの事象が生じるのであれば,その生じる事象の観念は,無限である限りでの神のうちにあるのではなく,その事象が生じる対象ideatumの観念を有する限りでの神のうちにあるということでした。したがってこれを第二部定理一二に適用すれば,精神を構成する観念の対象ideatumの中に起こることの観念は,同じように無限である神のうちにあるのではなく,何かが起こる対象ideatumの観念とされる精神の本性を構成する限りで神のうちにあるのでなければなりません。いい換えれば,その精神を構成する観念を有する限りで神のうちにあるといわれなければならないのです。
ところで,ある精神の本性を構成する限りでの神とか,その精神を構成する観念を有する限りでの神というのは,その精神に変状した限りでの神という意味であり,その精神を構成する観念に変状した限りでの神という意味です。すなわちそれはその精神そのもののことであり,また同じことですがその精神を構成する観念そのもののことです。したがって精神を構成する観念の対象ideatumの中に起こることについては,その精神がその観念を有する,つまりそれを認識するということになります。
これでこの定理はほぼ証明されているといえます。なぜなら,もしも精神を構成する観念の対象ideatumのことを身体というのであれば,上述のことは,身体の中に起こることの観念をその精神が有する,すなわち精神は自分の身体の中に起こることを認識するという意味になるからです。
振駒で里見女流名人の先手。初手▲2六歩で居飛車を明示。本田女流二段は得意の一手損角換り1-Ⅰ。先手の早繰り銀に対して四間飛車で受け,右玉のような形に。本格的な戦いが開始されるまで長めの駒組でしたが,先手の指し方はあまりよくなかったのではないかと思えます。

ここで△6五歩と後手の方から開戦。先手は▲3五歩として△4四銀に▲3四歩の取り込み。後手は△5五銀と進出。▲2四歩△同歩▲同飛と交換し△2三歩に▲2五飛。△5四角と打って4五を支えました。そこで▲6七金右と上がりましたが後手は待望の△3六歩。▲5六銀△同銀▲同金△3七歩成と進み,後手が桂得となりました。

まだまだ難しいのでしょうが,駒得しながらと金を作ったのですから後手としては満足できるのではないでしょうか。この後もスリリングな戦いが続いたのですが,最終的には駒損の先手が力尽きる形で後手が勝っています。
本田女流二段が勝ってタイトル初挑戦。本人としてはようやくといったところではないでしょうか。
第二部定理九系が平行論的証明のみによって証明されていると仮定した上で,第二部定理一二は次のように証明されることになります。
まず精神というのは思惟の様態ですから,それは第二部公理三によってある観念によって構成されていなければなりません。そしてこの観念には,第二部定理七系によって,それと同一個体である何らかの対象ideatumが必ず実在するということになります。
次に,この観念の対象ideatumの中に何かが起こるとすれば,その事象の観念というのは神のうちにあるのでなければなりません。これもまた第二部定理七系から明らかであるといえます。
ところで,第二部定理九系が示していることは,もしもある観念の対象ideatumの中に何らかの事象が生じるのであれば,その生じる事象の観念は,無限である限りでの神のうちにあるのではなく,その事象が生じる対象ideatumの観念を有する限りでの神のうちにあるということでした。したがってこれを第二部定理一二に適用すれば,精神を構成する観念の対象ideatumの中に起こることの観念は,同じように無限である神のうちにあるのではなく,何かが起こる対象ideatumの観念とされる精神の本性を構成する限りで神のうちにあるのでなければなりません。いい換えれば,その精神を構成する観念を有する限りで神のうちにあるといわれなければならないのです。
ところで,ある精神の本性を構成する限りでの神とか,その精神を構成する観念を有する限りでの神というのは,その精神に変状した限りでの神という意味であり,その精神を構成する観念に変状した限りでの神という意味です。すなわちそれはその精神そのもののことであり,また同じことですがその精神を構成する観念そのもののことです。したがって精神を構成する観念の対象ideatumの中に起こることについては,その精神がその観念を有する,つまりそれを認識するということになります。
これでこの定理はほぼ証明されているといえます。なぜなら,もしも精神を構成する観念の対象ideatumのことを身体というのであれば,上述のことは,身体の中に起こることの観念をその精神が有する,すなわち精神は自分の身体の中に起こることを認識するという意味になるからです。