スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

悪霊&第二部定理一一系の意味

2012-09-22 18:35:59 | 歌・小説
 神の似姿のひとつとしてイメージしていたと思われる子どもの虐待を,ドストエフスキーは小説の中に好んで描いたように感じられます。それほどこうした場面は頻出します。そしてその最たるものは,『悪霊』の第二部第九章だと僕は思っています。
                         
 僕はドストエフスキーの長編のうち,『白痴』は学生時代に読んでいます。その後はブランクがあって,ニーチェFriedrich Wilhelm Nietzscheの影響で再開して最初に読んだのが『カラマーゾフの兄弟』。『悪霊』と『罪と罰』はその後で,このふたつの前後は忘れてしまいましたが,ほぼ同じ時期であったことは間違いありません。
 『カラマーゾフの兄弟』は最初は退屈きわまりありませんでしたが,それは理由あってのことで,本編といえるストーリーが始まるやすぐに面白みを感じました。また『罪と罰』は最初から同じような印象を受けています。しかし『悪霊』は別で,最初に面白みを感じられなかったばかりでなく,読み進めていっても同じような印象が続きました。ところが,最後の最後になって,急に強い印象を受けることになったのです。
 実はこれにも理由があります。この第二部第九章というのは,スタヴローギンの告白という副題がつけられているのですが,あまりに悲惨な内容が含まれているため,雑誌への掲載が拒否されました。つまり当初は『悪霊』の一部を構成していなかったのです。こうした理由から,僕が読んだ新潮文庫版では,第二部第九章は,本来では十章であった筈のステパン氏差押えという副題になっていて,スタヴローギンの告白は巻末に,付録のような形で収録されているのです。しかし『悪霊』の中でどの部分に読者が最も強烈な印象を抱かされるのかといえば,それは間違いなくこの部分だと思います。だから最後の最後になって,この小説が僕にとってある特別な小説となったのです。
 ドストエフスキーは何とかこの部分を掲載できるように奔走しているように,これが『悪霊』の構成に欠かせないと考えていたことは間違いありません。いろいろな考え方はあるかと思いますが,僕はこの部分が『悪霊』の第二部第九章を構成している版を読むことをお勧めしますし,この部分だけでも多くの方に読んでほしいと思っています。

 第二部定理九系から第二部定理一二へと至るプロセスのラストに示されているのは第二部定理一一系です。
 この系Corollariumが直接的に意味している事柄は,人間の知性intellectusというのは無限な知性intellectus infinitusではなく有限なfinitum知性であるということと,そのゆえに現実的に存在する人間の知性は神Deusの無限知性の一部を構成しなければならないということだといえると思います。このことは第二部定理一〇第一部定理一五から自明であるといえるでしょう。また,神の知性が無限知性であるということは,第一部定義六から明らかだといえますし,第二部定理七系からも明らかだといえると思います。
 しかし,実際にこの系が示していることで最も重要な点は,人間の精神mens humana,第二部定理一一によって現実的に存在する個物res singularisの観念ideaによって構成されている人間の精神が,神の無限知性の一部であるというとき,それはふたつの仕方で説明されるということです。
 まず,神がある人間Aの精神を構成する限りでXの観念を有すると関連付けられるとき,人間AはXを認識するcognoscereのですが,このときはそれを十全に認識します。いい換えればこの場合には,人間Aの精神のうちに,Xの十全な観念idea adaequataがあるということになります。
 一方,神がある人間Aの精神の本性naturaを構成するとともに,ほかのものの観念を有する限りでXの観念を有するという仕方で関連付けられる場合もあります。この場合にも人間AがXを認識するという点では何ら変わるところはないのですが,この場合には人間AはXを十全には認識せず,混乱して認識することになります。いい換えればこの場合には,人間Aの精神のうちに,Xの混乱した観念idea inadaequataがあるということになります。
 このことから理解できるように,第二部定理一一系というのは,現実的に存在する人間の精神のうちに,ある十全な観念があるという場合と,ある混乱した観念があるという場合の,両方について言及されているのです。したがって,もしもスピノザが『エチカ』の中で後にこの第二部定理一一系について言及している場合には,少なくとも可能性という観点からすれば,そのどちらの場合に関しても含意することができるのだと考えなければならないということになるでしょう。
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