ドストエフスキーは『白痴』を書くにあたり,無条件に美しい人間を描こうと思うという主旨のことをいっています。ですから,ドストエフスキーのあらゆる小説の数多くの登場人物のうち,最もドストエフスキーがイメージしている神の似姿に接近している人物は,この『白痴』の主人公であるムイシュキン公爵をおいてほかにはないのではないかと思えます。

ドストエフスキーにとって,神の似姿の条件として,子どもと癲癇というふたつのキーポイントがあったのではないかという僕の考え方はすでに説明した通りです。このムイシュキン公爵というのは,癲癇の発作を起こす人物になっていますから,こちらの方は無条件に当てはまっているといっていいでしょう。もちろん他の小説の中にも,癲癇の患者は多く登場しますが,いまはムイシュキン公爵がそうした人物のひとりとして造形されているということだけで十分です。一方,子どもというキーワードですが,確かにムイシュキン公爵の行動には,子どもらしいところがあるように僕には感じ取れます。
実をいいますと,子どもということばを,僕は二律背反的な意味に捕えます。つまりそれはよくいえば,ある純真さとでもいうべきものを心の中に備えているという意味です。そして確かにムイシュキン公爵という人物は,そうした一面をもっているといえるでしょう。
しかし一方で,子どもっぽいとか子どもじみているということばが一般的にも使用されるように,子どもというのは悪くいえば常識から外れているとか,ひとりの人間として成熟しきれていないというような,否定的な意味合いもあるのです。とくにスピノザの哲学においては,子どもというのはむしろこうした否定的意味合いを帯びて言及されることがほとんどなのですが,ムイシュキン公爵というのが,悪くいうならそういう子どもじみた人物であるということも,また一面の真理なのではないかと思います。
もちろんドストエフスキーが子どもというキーワードを持ち出すとき,そうした両面をイメージしているのも事実でしょう。しかし神の似姿としての子どもという場合に,実はもうひとつ,重要な要素もあるのではないかと僕は思っています。
実はスピノザは,第二部定理一二証明の論証過程の中で,第二部定理一一系も援用しています。これは,人間の精神mens humanaを構成する観念の対象ideatumの中に起こることの観念ideaが,その対象の観念を有する限りで神Deusのうちにあるということを第二部定理九系に訴えて示した後に,それを人間の精神が認識しなければならないということを示すための援用です。
しかるに,第二部定理一一系の意味の中には,人間の精神が十全な観念idea adaequataを有する場合と混乱した観念idea inadaequataを有する場合との両方が含まれているのですから,少なくとも可能性としては,これを混乱した観念であると理解する余地が残されているということになるでしょう。そしてこの点が,おそらく上野修のように,自分の身体corpusの中に起こることの認識cognitioを,混乱した認識であると理解するということの,『エチカ』の中における最大の根拠になるものと思います。すでに示しましたように,上野は人間が自分の身体の中に起こることを認識するcognoscere,とくに混乱して認識するということを示した「われらに似たるもの」という論文の中で,第二部定理一二には何も言及していません。一方で上野はこのことを,第二部定理一一系を援用することによって説明しているのですが,確かにスピノザが第二部定理一二を証明する際に,第二部定理一一系を援用しているということを考慮に入れるならば,この上野の論証Demonstratioにも一理あるとはいえると僕は思うのです。

しかし,改めて僕の立場を述べておくならば,少なくとも第二部定理九系に関しては,それが直接的に神が有する観念として言及されている以上,第二部定理三二と第二部定義四から,それは十全な観念についての言及であると理解しなければいけないと思います。よって第二部定理一一系において,人間の精神の中の混乱した観念について神との関連を説明している部分に関しては,第二部定理九系とは無関係なのだと判断します。いい換えれば,スピノザは第二部定理一二を証明する際に,確かに第二部定理一一系を援用していますが,それは第二部定理九系から帰結されたことを踏まえた上での援用であり,これを上野のように混乱した認識を含むものとしては理解しません。

ドストエフスキーにとって,神の似姿の条件として,子どもと癲癇というふたつのキーポイントがあったのではないかという僕の考え方はすでに説明した通りです。このムイシュキン公爵というのは,癲癇の発作を起こす人物になっていますから,こちらの方は無条件に当てはまっているといっていいでしょう。もちろん他の小説の中にも,癲癇の患者は多く登場しますが,いまはムイシュキン公爵がそうした人物のひとりとして造形されているということだけで十分です。一方,子どもというキーワードですが,確かにムイシュキン公爵の行動には,子どもらしいところがあるように僕には感じ取れます。
実をいいますと,子どもということばを,僕は二律背反的な意味に捕えます。つまりそれはよくいえば,ある純真さとでもいうべきものを心の中に備えているという意味です。そして確かにムイシュキン公爵という人物は,そうした一面をもっているといえるでしょう。
しかし一方で,子どもっぽいとか子どもじみているということばが一般的にも使用されるように,子どもというのは悪くいえば常識から外れているとか,ひとりの人間として成熟しきれていないというような,否定的な意味合いもあるのです。とくにスピノザの哲学においては,子どもというのはむしろこうした否定的意味合いを帯びて言及されることがほとんどなのですが,ムイシュキン公爵というのが,悪くいうならそういう子どもじみた人物であるということも,また一面の真理なのではないかと思います。
もちろんドストエフスキーが子どもというキーワードを持ち出すとき,そうした両面をイメージしているのも事実でしょう。しかし神の似姿としての子どもという場合に,実はもうひとつ,重要な要素もあるのではないかと僕は思っています。
実はスピノザは,第二部定理一二証明の論証過程の中で,第二部定理一一系も援用しています。これは,人間の精神mens humanaを構成する観念の対象ideatumの中に起こることの観念ideaが,その対象の観念を有する限りで神Deusのうちにあるということを第二部定理九系に訴えて示した後に,それを人間の精神が認識しなければならないということを示すための援用です。
しかるに,第二部定理一一系の意味の中には,人間の精神が十全な観念idea adaequataを有する場合と混乱した観念idea inadaequataを有する場合との両方が含まれているのですから,少なくとも可能性としては,これを混乱した観念であると理解する余地が残されているということになるでしょう。そしてこの点が,おそらく上野修のように,自分の身体corpusの中に起こることの認識cognitioを,混乱した認識であると理解するということの,『エチカ』の中における最大の根拠になるものと思います。すでに示しましたように,上野は人間が自分の身体の中に起こることを認識するcognoscere,とくに混乱して認識するということを示した「われらに似たるもの」という論文の中で,第二部定理一二には何も言及していません。一方で上野はこのことを,第二部定理一一系を援用することによって説明しているのですが,確かにスピノザが第二部定理一二を証明する際に,第二部定理一一系を援用しているということを考慮に入れるならば,この上野の論証Demonstratioにも一理あるとはいえると僕は思うのです。

しかし,改めて僕の立場を述べておくならば,少なくとも第二部定理九系に関しては,それが直接的に神が有する観念として言及されている以上,第二部定理三二と第二部定義四から,それは十全な観念についての言及であると理解しなければいけないと思います。よって第二部定理一一系において,人間の精神の中の混乱した観念について神との関連を説明している部分に関しては,第二部定理九系とは無関係なのだと判断します。いい換えれば,スピノザは第二部定理一二を証明する際に,確かに第二部定理一一系を援用していますが,それは第二部定理九系から帰結されたことを踏まえた上での援用であり,これを上野のように混乱した認識を含むものとしては理解しません。