オールスター競輪直前の記念競輪は1日からの青森記念で今日が決勝。並びは佐藤友和-成田ー佐藤康紀の北日本,平原-長塚-中村の関東,新田-望月の静岡で坂本は単騎。
前受けが平原,4番手に佐藤友和,7番手に新田,最後尾に坂本という周回。残り2周の1コーナーから新田が動き出し,坂本まで続いてバックで平原を叩いて打鐘。ここから佐藤友和が外を上昇して新田を叩くと,その上を平原が発進。しかしホームで成田がこれを強烈に牽制すると平原は浮いてしまい圏外に。長塚は北日本の後ろへスイッチ。新田は内,坂本は外から動きましたが大勢には影響なし。北日本勢の直線勝負かと思いましたが,コーナーから自力を出した長塚が直線であっさりと差し切って優勝。成田が2着で佐藤友和が3着。
優勝した茨城の長塚智広選手は5月の宇都宮記念以来のGⅢ5勝目。青森記念は初優勝。マークした平原がレースにほとんど参加できませんでしたが,自力を使えますのでさほど問題とはなりませんでした。このシリーズは完全優勝ですから,調子もよかったのでしょう。基本的にはスプリンターなので短い距離のスピードは凄いものがありますが,それにしても今日は瞠目の伸びでした。
こうした仕方で第二部定理一二証明がなされた場合,第二部定理一二というのは次のような意味になるというのが僕の考え方です。
まず,第二部定理九系で,ある観念の対象ideatumの中に起こることの観念が,その観念を有する限りで神のうちにあるといわれるとき,これを僕は,その対象ideatumの中に起こることの観念は,その対象ideatumの観念を有する限りで神のうちで十全であると理解します。その根拠は,まず第一に,第二部定理三二により,観念は神に関係づけられる限りでは真の観念であり,第二に,第二部定義四により,真の観念といわれるすべての観念は,その内的特徴からみられる限り,十全な観念であるといわれなければならないからです。
そこでもしも第二部定理一二が,第二部定理九系において一般的にいわれている事柄を,ある具体的なものに適用したような定理であるとしたら,同じことが第二部定理一二にも妥当でなければならないということになります。したがって,ある精神を構成する対象ideatumの中に起こることの観念が,その精神の本性を構成する限りで,いい換えればその精神に変状した限りでの神のうちにあるとするならば,対象ideatumの中に起こることの観念はその限りで十全な観念であるということになります。つまり,その精神に変状した限りでの神というのは,その精神そのもののことなのですから,その精神はその精神を組織する観念の対象ideatumの中に起こることについては,それを十全に認識するということになります。したがって,精神を構成する観念の対象ideatumを身体というのであれば,ある精神は,自身の身体の中に起こることについては,それを単に認識するというのではなくて,十全に認識するということになるのです。
僕はすでに,第二部定理一二で知覚するということばが用いられているとき,それは概念と知覚を明確に分類した上での知覚という意味ではなく,むしろ単に認識するという意味であるとこの定理を理解しているといいました。僕がこの定理をそのように理解する理由が,この部分にあります。すなわち知覚は精神の受動ですが,その場合は精神のうちに混乱した観念が発生します。しかし僕はこの定理を,そのようには理解していないのです。
前受けが平原,4番手に佐藤友和,7番手に新田,最後尾に坂本という周回。残り2周の1コーナーから新田が動き出し,坂本まで続いてバックで平原を叩いて打鐘。ここから佐藤友和が外を上昇して新田を叩くと,その上を平原が発進。しかしホームで成田がこれを強烈に牽制すると平原は浮いてしまい圏外に。長塚は北日本の後ろへスイッチ。新田は内,坂本は外から動きましたが大勢には影響なし。北日本勢の直線勝負かと思いましたが,コーナーから自力を出した長塚が直線であっさりと差し切って優勝。成田が2着で佐藤友和が3着。
優勝した茨城の長塚智広選手は5月の宇都宮記念以来のGⅢ5勝目。青森記念は初優勝。マークした平原がレースにほとんど参加できませんでしたが,自力を使えますのでさほど問題とはなりませんでした。このシリーズは完全優勝ですから,調子もよかったのでしょう。基本的にはスプリンターなので短い距離のスピードは凄いものがありますが,それにしても今日は瞠目の伸びでした。
こうした仕方で第二部定理一二証明がなされた場合,第二部定理一二というのは次のような意味になるというのが僕の考え方です。
まず,第二部定理九系で,ある観念の対象ideatumの中に起こることの観念が,その観念を有する限りで神のうちにあるといわれるとき,これを僕は,その対象ideatumの中に起こることの観念は,その対象ideatumの観念を有する限りで神のうちで十全であると理解します。その根拠は,まず第一に,第二部定理三二により,観念は神に関係づけられる限りでは真の観念であり,第二に,第二部定義四により,真の観念といわれるすべての観念は,その内的特徴からみられる限り,十全な観念であるといわれなければならないからです。
そこでもしも第二部定理一二が,第二部定理九系において一般的にいわれている事柄を,ある具体的なものに適用したような定理であるとしたら,同じことが第二部定理一二にも妥当でなければならないということになります。したがって,ある精神を構成する対象ideatumの中に起こることの観念が,その精神の本性を構成する限りで,いい換えればその精神に変状した限りでの神のうちにあるとするならば,対象ideatumの中に起こることの観念はその限りで十全な観念であるということになります。つまり,その精神に変状した限りでの神というのは,その精神そのもののことなのですから,その精神はその精神を組織する観念の対象ideatumの中に起こることについては,それを十全に認識するということになります。したがって,精神を構成する観念の対象ideatumを身体というのであれば,ある精神は,自身の身体の中に起こることについては,それを単に認識するというのではなくて,十全に認識するということになるのです。
僕はすでに,第二部定理一二で知覚するということばが用いられているとき,それは概念と知覚を明確に分類した上での知覚という意味ではなく,むしろ単に認識するという意味であるとこの定理を理解しているといいました。僕がこの定理をそのように理解する理由が,この部分にあります。すなわち知覚は精神の受動ですが,その場合は精神のうちに混乱した観念が発生します。しかし僕はこの定理を,そのようには理解していないのです。