スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

農林水産大臣賞典浦和記念&有名性

2015-12-02 19:16:39 | 地方競馬
 11年ぶりに12月に入ってからの実施になった第36回浦和記念
 サイモンロードとリアライズリンクスが出ていきましたが,サイモンロードは控えてリアライズリンクスの逃げに。外連味なく飛ばしていったので道中は大きなリードを奪いました。単独の2番手となったのがサミットストーン。その後ろに控えたサイモンロードとハッピースプリント。さらにタイムズアローとソリタリーキングが並んで追走という隊列に。前半の1000mは61秒5でハイペース。2番手は1秒差くらいだったと思いますので全体的にはミドルペースだったと考えてよいかもしれません。
 リアライズリンクスは3コーナーで一杯になり追っていたサミットストーンがコーナーの途中で先頭に。サミットストーンをマークして追い上げたハッピースプリントは直線の入口ではサミットストーンに追いつきました。ここから追い出されたハッピースプリントが抜け出し,2馬身の差をつけて快勝。サミットストーンが2着。この2頭を追うところでやや離されてしまったソリタリーキングが2馬身差で3着。
                           
 優勝したハッピースプリントは昨年の東京ダービー以来の勝利。重賞は一昨年の全日本2歳優駿以来の3勝目。長く勝てなかったのは3歳秋の休養明けのレース以外は強いメンバーを相手に戦い続けていたため。チャンピオンズカップへの出走を予定していましたが,賞金不足で除外濃厚となったためこちらに回ってきたもの。相手のレベルが一気に落ちていましたので,ここは勝てるだろうと考えていました。順当な優勝といえるでしょう。最も高い能力を発揮できるのはもう少し短い距離なのではないかと思います。はとこに2009年の関東オークススパーキングレディーカップ,2010年の名古屋大賞典スパーキングレディーカップ,2011年のTCK女王盃エンプレス杯スパーキングレディーカップを勝ったラヴェリータ
 騎乗した北海道の宮崎光行騎手は南関東ではこの馬で全日本2歳優駿を勝って以来の重賞制覇。浦和記念は初勝利。管理している大井の森下淳平調教師も浦和記念は初勝利。

 1661年にオルデンブルクホイヘンスに会うことを主目的にオランダに来たとき,スピノザが住むレインスブルフヘルマン・ホーマンの家にも足を伸ばしたのは,ピーテル・セラリウスから話を聞いていたからなのかもしれませんが,オランダに到着した後でスピノザの噂を耳にしたからなのかもしれません。この場合その噂というのは,単にスピノザがユダヤ人共同体から破門された人物というだけでは不十分なのであり,オルデンブルクが会うことによって利益を得られるような知識人でなければならなかったのです。
 1665年にフォールブルフで新任の牧師を選定する際,その選定にあたったティードマンは,スピノザを下宿させているということで保守派から非難を浴びました。これは下宿しているのがスピノザであったから可能であった非難なのであり,少なくとも保守派にとって,スピノザは危険思想の持ち主という意味において有名であった証拠となり得るでしょう。
 1666年にクールバッハ兄弟が尋問されたとき,スピノザとの関係がその中に含まれていたことも,同じ意味をもっているといえるでしょう。これらのことを考えれば,スピノザのことをフェルメールがレーウェンフックからの紹介なしに知ったとしても,さほど不思議ではないと推定してよいと思います。
 ですが,スピノザがフェルメールも知り得るほどに有名であったという根拠とした上述の説明は,いずれもスピノザが思想家として,とくに保守派から見た場合に危険な思想家であるという意味で有名だったということなのであって,レンズの製作に携わっていたという意味で著名であったことを示しているわけではありません。仮にフェルメールがレーウェンフックの秘密裏に高性能のレンズの入手に動いたとしても,スピノザが優秀な技術者であるということを知らなければ,会う必然性はありません。フェルメールにとって重要であったのは,自分にとって満足ができるレンズを製作できる人物だったのであり,スピノザという特定された人物であったわけではありません。むしろその技量があればスピノザでなくても構わなかったと考えなければならないからです。
コメント
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