今年もJRA勢の争いになるであろうと予想された第15回名古屋グランプリ。
逃げたのはエーシンモアオバー。2番手にニホンピロアワーズで3番手にアムールブリエ。この後ろがサイモンロード,エアマデレーン,ソリタリーキングの3頭。その後ろにキッズニゴウハンとカゼノコという隊列。超スローペースだったと思います。
道中は目立った動きがなく,2周目の3コーナー手前からニホンピロアワーズがエーシンモアオバーに並び掛けていきました。最終コーナーでニホンピロアワーズが前に出るとエーシンモアオバーはギブアップ。アムールブリエも追い上げてニホンピロアワーズと並ぶように直線に。この時点でアムールブリエは騎手が後ろを振り返るほどの余裕。直線であっさりとニホンピロアワーズを捕え,1馬身の差をつけて優勝。ニホンピロアワーズが2着。アムールブリエを追ったソリタリーキングのさらに外からカゼノコが差して1馬身半差の3着。ソリタリーキングがアタマ差で4着。
優勝したアムールブリエは8月のブリーダーズゴールドカップ以来の勝利で重賞3勝目。おそらく距離が長い方がよく,牝馬路線は長距離が少ないのでその後は苦戦していたもの。このくらいのメンバーなら牡馬相手でも通用するだろうと考えていましたが,やはりその通りでした。牝馬路線に固執するよりも,牡馬相手でも2000m以上のレースに出走する方が今後も好走の可能性は高いのではないかと思います。母はヘヴンリーロマンス。祖母がファーストアクト。半兄に今年のシリウスステークスを勝っている現役のアウォーディー。Amour Brillerはフランス語で愛の輝き。
騎乗した浜中俊騎手と管理している松永幹夫調教師は名古屋グランプリ初勝利。
書簡四十八の二は二通の異なった書簡から構成されていると考えられます。したがって,スピノザからイエレスに宛てられた書簡のうち,遺稿集から排除されたものが,最低でも二通はあったと確定できます。スピノザはレインスブルフに住むようになってからは,親友たちともそうしばしばは会うことができなかったと考えられます。おそらく私信といえるような書簡のやり取りもあった筈で,しかしそうしたものはすべてが排除されているのですから,それまで含めればもっとあったのは間違いないといえるでしょう。
ただ,私信に類するものは相手がイエレスであるかどうかに関係なくすべてが遺稿集への掲載を見送られたと解するのが妥当ですから,仮にそういった書簡が存在していたとしても,それは掲載の価値はないと判断されて当然です。むしろたとえひとつだけでもイエレス宛の私信が掲載されていたとしたら,編集者の編集方針は一貫性を欠くことになりますから,なぜその書簡は掲載されるに至ったのかということの方が考えられなければなりません。いい換えれば,たとえスピノザがイエレスに宛てた書簡ならそのすべてが掲載に値する価値があると判断されていたと誤った仮定をした場合にすら,私信が排除されたことに関しては検討の必要性がないのです。
イエレスからスピノザに宛てられたすべての書簡が遺稿集から排除されたことに注目するなら,四十八の二のふたつの書簡が掲載を見送られたのは,それがイエレスの著書を主題にしていたからではないかと推測されます。僕はイエレスとスピノザの間の文通の掲載に関しては,イエレスが編集者のひとりであった以上,イエレス自身が判断したと考えますし,少なくとも何の関与も果たさなかった可能性はきわめて薄いだろうと思います。そのときにイエレスが自分が出したものには何の価値もないと判断したとすれば,それは自分がスピノザに対して何らかの考えを述べても無価値だと判断したのと同じだと僕は考えます。なのでイエレスの著作に対してスピノザが何らかの言及をしたとしても,やはりそれは価値がないというように判断してもおかしくはないだろうと思うのです。
逃げたのはエーシンモアオバー。2番手にニホンピロアワーズで3番手にアムールブリエ。この後ろがサイモンロード,エアマデレーン,ソリタリーキングの3頭。その後ろにキッズニゴウハンとカゼノコという隊列。超スローペースだったと思います。
道中は目立った動きがなく,2周目の3コーナー手前からニホンピロアワーズがエーシンモアオバーに並び掛けていきました。最終コーナーでニホンピロアワーズが前に出るとエーシンモアオバーはギブアップ。アムールブリエも追い上げてニホンピロアワーズと並ぶように直線に。この時点でアムールブリエは騎手が後ろを振り返るほどの余裕。直線であっさりとニホンピロアワーズを捕え,1馬身の差をつけて優勝。ニホンピロアワーズが2着。アムールブリエを追ったソリタリーキングのさらに外からカゼノコが差して1馬身半差の3着。ソリタリーキングがアタマ差で4着。
優勝したアムールブリエは8月のブリーダーズゴールドカップ以来の勝利で重賞3勝目。おそらく距離が長い方がよく,牝馬路線は長距離が少ないのでその後は苦戦していたもの。このくらいのメンバーなら牡馬相手でも通用するだろうと考えていましたが,やはりその通りでした。牝馬路線に固執するよりも,牡馬相手でも2000m以上のレースに出走する方が今後も好走の可能性は高いのではないかと思います。母はヘヴンリーロマンス。祖母がファーストアクト。半兄に今年のシリウスステークスを勝っている現役のアウォーディー。Amour Brillerはフランス語で愛の輝き。
騎乗した浜中俊騎手と管理している松永幹夫調教師は名古屋グランプリ初勝利。
書簡四十八の二は二通の異なった書簡から構成されていると考えられます。したがって,スピノザからイエレスに宛てられた書簡のうち,遺稿集から排除されたものが,最低でも二通はあったと確定できます。スピノザはレインスブルフに住むようになってからは,親友たちともそうしばしばは会うことができなかったと考えられます。おそらく私信といえるような書簡のやり取りもあった筈で,しかしそうしたものはすべてが排除されているのですから,それまで含めればもっとあったのは間違いないといえるでしょう。
ただ,私信に類するものは相手がイエレスであるかどうかに関係なくすべてが遺稿集への掲載を見送られたと解するのが妥当ですから,仮にそういった書簡が存在していたとしても,それは掲載の価値はないと判断されて当然です。むしろたとえひとつだけでもイエレス宛の私信が掲載されていたとしたら,編集者の編集方針は一貫性を欠くことになりますから,なぜその書簡は掲載されるに至ったのかということの方が考えられなければなりません。いい換えれば,たとえスピノザがイエレスに宛てた書簡ならそのすべてが掲載に値する価値があると判断されていたと誤った仮定をした場合にすら,私信が排除されたことに関しては検討の必要性がないのです。
イエレスからスピノザに宛てられたすべての書簡が遺稿集から排除されたことに注目するなら,四十八の二のふたつの書簡が掲載を見送られたのは,それがイエレスの著書を主題にしていたからではないかと推測されます。僕はイエレスとスピノザの間の文通の掲載に関しては,イエレスが編集者のひとりであった以上,イエレス自身が判断したと考えますし,少なくとも何の関与も果たさなかった可能性はきわめて薄いだろうと思います。そのときにイエレスが自分が出したものには何の価値もないと判断したとすれば,それは自分がスピノザに対して何らかの考えを述べても無価値だと判断したのと同じだと僕は考えます。なのでイエレスの著作に対してスピノザが何らかの言及をしたとしても,やはりそれは価値がないというように判断してもおかしくはないだろうと思うのです。