リーザの死を必然的であると解することが可能なのは,テクストだけに依拠するなら記者だけです。叫び声が殺人の契機になったと考えることは可能でも,それが確実であるとはだれにもいえません。ましてテクストは偶発的であったことを強調し,それが結論となっているのですから,一般の読者はこの殺人が必然であったとは解さないでしょう。一方で,テクストを記述した記者が,これを必然的な殺人と解する読者が存在すると認識していたのも間違いないところです。なぜ記者がそう認識したかといえば,記者自身がそこに必然性があると考えていたからに違いありません。
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記者が叫び声の部分を記述したこと自体が,叫び声と殺人の間に因果関係があると解していた証拠です。もしもその叫び声が殺人とは何の関係もないと記者が考えていたのなら,この部分を記述する必要がないからです。あるいは記述すること自体が不可能であったでしょう。
つまり記者は,殺人を必然的と解する架空の読者をあらかじめ設定し,その読者が実は偶発的な殺人であったと認識を改めるような仕方でテクストを書いたことになります。死の状況の記述に関して記者の意図があったのだとすれば,その意図とはこうしたことであったと考えるのが妥当だと僕は考えます。
ということは,記者は殺人が必然的であると解されてはまずいと思っていたとみるのが常識的でしょう。そしてこの場合まずいというのは,真実ではないという意味であるより,記者自身にとって悪しきことであると理解するべきだと思えます。なぜなら,単に誤解を防ぐためであるならもっと別の記述ができた筈だからです。そもそもこれを必然的と解する架空の読者を想定すること自体が,いい換えれば誤解するであろう読者を想定していること自体が,この観点からは不自然だというべきでしょう。だから記者は,叫び声に何らかの意図があったというようには解されたくなかったのです。つまり記者の意図の根源的な真意は,保身にあったと思います。なぜそんな保身が必要だったのか。それは叫び声をあげただれかのうちのどちらかは,実は記者自身であったからではないでしょうか。
イエレスに宛てられたスピノザの書簡が遺稿集への掲載にあたって編集者に選別されていたという事実は,次のことから明らかになっています。
1673年に産まれ,1717年に大学教授となったドイツ人のゴットリープ・シュトレという人物がいました。この人が1703年にふたりを連れてオランダを旅しました。その供のひとりにハルマンというドイツ人がいます。シュトレとハルマンはそれぞれにそのときの旅行記を残したようです。残存しているのはその抜き書きにすぎません。
このうちハルマンの旅行記の方に,スピノザの著作の出版者のところに立ち寄ったとき,遺稿集には未掲載のスピノザの書簡を見せてもらったという記述があります。これがイエレスへのものでした。現行の『スピノザ往復書簡集』では書簡四十八の二として収録されているものがそれです。書簡の番号からも,これが遺稿集には未収録であったことが分かります。なお,ステノからの書簡はアルベルトからの書簡六十七に関連付けられて六十七の二とされていますが,四十八の二と四十八は無関係です。四十八はハイデルベルク大学教授への要請をスピノザが断った書簡です。四十八の二は日付がこの書簡の直後なので,ここに収録されたのです。
ハルマンがどういう人物であったかはよく分からないようです。ただひとつ,間違いなくいえるのは,自由思想にかなり寛容な人物であったということです。というのは旅行記の別の部分で,この時代のオランダ人たちがスピノザが明らかにした諸々の真理に見向きもしないのは残念であるとし,スピノザの思想は人びとにとって有益なものであると記しているからです。すでにスピノザは無神論者の汚名を着せられていて,その思想に同調することは危険なことではなかったかと思われます。ハルマンはオランダ人ではなくドイツからの旅行者ではありましたが,1703年の時点でこのように記述できる人物が存在したということは僕にとっては驚きでした。たぶんこのことはシュトレの方にも当て嵌まります。シュトレもオランダ滞在中にスピノザのことを多く調べていて,それが旅行の目的ではなかったかと思えるほどです。
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記者が叫び声の部分を記述したこと自体が,叫び声と殺人の間に因果関係があると解していた証拠です。もしもその叫び声が殺人とは何の関係もないと記者が考えていたのなら,この部分を記述する必要がないからです。あるいは記述すること自体が不可能であったでしょう。
つまり記者は,殺人を必然的と解する架空の読者をあらかじめ設定し,その読者が実は偶発的な殺人であったと認識を改めるような仕方でテクストを書いたことになります。死の状況の記述に関して記者の意図があったのだとすれば,その意図とはこうしたことであったと考えるのが妥当だと僕は考えます。
ということは,記者は殺人が必然的であると解されてはまずいと思っていたとみるのが常識的でしょう。そしてこの場合まずいというのは,真実ではないという意味であるより,記者自身にとって悪しきことであると理解するべきだと思えます。なぜなら,単に誤解を防ぐためであるならもっと別の記述ができた筈だからです。そもそもこれを必然的と解する架空の読者を想定すること自体が,いい換えれば誤解するであろう読者を想定していること自体が,この観点からは不自然だというべきでしょう。だから記者は,叫び声に何らかの意図があったというようには解されたくなかったのです。つまり記者の意図の根源的な真意は,保身にあったと思います。なぜそんな保身が必要だったのか。それは叫び声をあげただれかのうちのどちらかは,実は記者自身であったからではないでしょうか。
イエレスに宛てられたスピノザの書簡が遺稿集への掲載にあたって編集者に選別されていたという事実は,次のことから明らかになっています。
1673年に産まれ,1717年に大学教授となったドイツ人のゴットリープ・シュトレという人物がいました。この人が1703年にふたりを連れてオランダを旅しました。その供のひとりにハルマンというドイツ人がいます。シュトレとハルマンはそれぞれにそのときの旅行記を残したようです。残存しているのはその抜き書きにすぎません。
このうちハルマンの旅行記の方に,スピノザの著作の出版者のところに立ち寄ったとき,遺稿集には未掲載のスピノザの書簡を見せてもらったという記述があります。これがイエレスへのものでした。現行の『スピノザ往復書簡集』では書簡四十八の二として収録されているものがそれです。書簡の番号からも,これが遺稿集には未収録であったことが分かります。なお,ステノからの書簡はアルベルトからの書簡六十七に関連付けられて六十七の二とされていますが,四十八の二と四十八は無関係です。四十八はハイデルベルク大学教授への要請をスピノザが断った書簡です。四十八の二は日付がこの書簡の直後なので,ここに収録されたのです。
ハルマンがどういう人物であったかはよく分からないようです。ただひとつ,間違いなくいえるのは,自由思想にかなり寛容な人物であったということです。というのは旅行記の別の部分で,この時代のオランダ人たちがスピノザが明らかにした諸々の真理に見向きもしないのは残念であるとし,スピノザの思想は人びとにとって有益なものであると記しているからです。すでにスピノザは無神論者の汚名を着せられていて,その思想に同調することは危険なことではなかったかと思われます。ハルマンはオランダ人ではなくドイツからの旅行者ではありましたが,1703年の時点でこのように記述できる人物が存在したということは僕にとっては驚きでした。たぶんこのことはシュトレの方にも当て嵌まります。シュトレもオランダ滞在中にスピノザのことを多く調べていて,それが旅行の目的ではなかったかと思えるほどです。