昨日から甲府で指されていた第28期竜王戦七番勝負第五局。
先手の渡辺明棋王が糸谷哲郎竜王の一手損角換わりを拒否するような指し方をして,先手が浮き飛車,後手が引き飛車の相掛かりに。ですが後手は5筋の位を取って中飛車に回り,あまり見たことのない将棋になりました。8筋を交換してからこのように指すのはあまり得がないように思えるのですが,こういう指し方が好きなのでしょう。
4四で角交換がされたところ。先手はすぐに▲1六角と打っていきました。それなりに成算があっての指し方に思えます。
△4三銀右と受けたのに対して▲2四歩と合わせていきました。そこで△4一角と打って受けましたが,この手はさすがに考えていなかったのではないかと思います。熟考して▲2三歩成△同歩に▲2二歩と打ちました。これは金で取ると▲3五銀で処置できないと思われるので△同飛は止むを得なかったのではないかと思います。先手はそれでも▲3五銀と出て△同銀に▲5六飛と回って王手。これも仕方のない△4二王に▲4三角成△同王▲5一飛成で龍を作りました。
先手は著しい駒損ですが,玉がしっかりしていて手番。後手は駒の働きも悪いので,これで先手が確たるリードを奪ったといえそうです。たぶん駒損だったからだと推測しますが,安全に勝つような順を選択したので手数はかかりましたが,先手の快勝といえる一局でしょう。
渡辺棋王が4勝1敗で竜王に復位。第17期,18期,19期,20期,21期,22期,23期,24期,25期に獲得していて3年ぶり10期目の竜王です。
『フェルメールとスピノザ』ではスピノザはオランダでは哲学者としてよりもレンズの加工職人として知られていたとされています。事実その通りであるなら,話は簡単です。思想家としてのスピノザの名前をフェルメールが知っていたとしておかしくないだけの状況証拠は揃っているのですから,レンズ職人としてもっと知られていたのなら,当然ながらフェルメールがそのことも知り得たということになるだろうからです。さらにもうひとつ,哲学者としてのスピノザについては,加え得ることがあります。それは『デカルトの哲学原理』はイエレスの金銭的援助を得ることにより,1663年には実名で発刊されていたことです。これはラテン語で書かれたものですが,翌年にはオランダ語版も出版されていました。ブレイエンベルフはそれを読んで反駁の手紙を私的にスピノザに送ったのです。現存する『スピノザ往復書簡集』にはスピノザがレンズについて語っているものがあまり多く含まれていません。でもこれは遺稿集の編集者が,掲載する価値がないと判断したために除去したからであったかもしれず,ブレイエンベルフが哲学に関して私的な手紙を送ったように,レンズの製作に関してスピノザに送られた私信というのもなかったとはいえないのです。
とはいっても,本当にスピノザが哲学者としてよりレンズ職人として有名であったのかを確かめる術は僕にはありません。確かにレインスブルフのヘルマン・ホーマンの家に下宿していた時点で,レンズを研磨するための専用の部屋があったくらいですから,知識が高度であったのは間違いないとしていいでしょうが,それが広く知れ渡っていたかどうかは不明としかいいようがありません。
それでも,ライプニッツが後にスピノザとの接触を求めるためのおそらくは方便としてスピノザに書簡を送ったとき,光学に関する有識者とスピノザをみなしていたのは事実です。つまりライプニッツが興味を抱いたのはスピノザの思想に対してであるのは間違いないと僕は判断しますが,同時にレンズ職人としてのスピノザを知っていたのは確かだし,それはシュラーからの情報だけではなかったと僕は思うのです。
先手の渡辺明棋王が糸谷哲郎竜王の一手損角換わりを拒否するような指し方をして,先手が浮き飛車,後手が引き飛車の相掛かりに。ですが後手は5筋の位を取って中飛車に回り,あまり見たことのない将棋になりました。8筋を交換してからこのように指すのはあまり得がないように思えるのですが,こういう指し方が好きなのでしょう。
4四で角交換がされたところ。先手はすぐに▲1六角と打っていきました。それなりに成算があっての指し方に思えます。
△4三銀右と受けたのに対して▲2四歩と合わせていきました。そこで△4一角と打って受けましたが,この手はさすがに考えていなかったのではないかと思います。熟考して▲2三歩成△同歩に▲2二歩と打ちました。これは金で取ると▲3五銀で処置できないと思われるので△同飛は止むを得なかったのではないかと思います。先手はそれでも▲3五銀と出て△同銀に▲5六飛と回って王手。これも仕方のない△4二王に▲4三角成△同王▲5一飛成で龍を作りました。
先手は著しい駒損ですが,玉がしっかりしていて手番。後手は駒の働きも悪いので,これで先手が確たるリードを奪ったといえそうです。たぶん駒損だったからだと推測しますが,安全に勝つような順を選択したので手数はかかりましたが,先手の快勝といえる一局でしょう。
渡辺棋王が4勝1敗で竜王に復位。第17期,18期,19期,20期,21期,22期,23期,24期,25期に獲得していて3年ぶり10期目の竜王です。
『フェルメールとスピノザ』ではスピノザはオランダでは哲学者としてよりもレンズの加工職人として知られていたとされています。事実その通りであるなら,話は簡単です。思想家としてのスピノザの名前をフェルメールが知っていたとしておかしくないだけの状況証拠は揃っているのですから,レンズ職人としてもっと知られていたのなら,当然ながらフェルメールがそのことも知り得たということになるだろうからです。さらにもうひとつ,哲学者としてのスピノザについては,加え得ることがあります。それは『デカルトの哲学原理』はイエレスの金銭的援助を得ることにより,1663年には実名で発刊されていたことです。これはラテン語で書かれたものですが,翌年にはオランダ語版も出版されていました。ブレイエンベルフはそれを読んで反駁の手紙を私的にスピノザに送ったのです。現存する『スピノザ往復書簡集』にはスピノザがレンズについて語っているものがあまり多く含まれていません。でもこれは遺稿集の編集者が,掲載する価値がないと判断したために除去したからであったかもしれず,ブレイエンベルフが哲学に関して私的な手紙を送ったように,レンズの製作に関してスピノザに送られた私信というのもなかったとはいえないのです。
とはいっても,本当にスピノザが哲学者としてよりレンズ職人として有名であったのかを確かめる術は僕にはありません。確かにレインスブルフのヘルマン・ホーマンの家に下宿していた時点で,レンズを研磨するための専用の部屋があったくらいですから,知識が高度であったのは間違いないとしていいでしょうが,それが広く知れ渡っていたかどうかは不明としかいいようがありません。
それでも,ライプニッツが後にスピノザとの接触を求めるためのおそらくは方便としてスピノザに書簡を送ったとき,光学に関する有識者とスピノザをみなしていたのは事実です。つまりライプニッツが興味を抱いたのはスピノザの思想に対してであるのは間違いないと僕は判断しますが,同時にレンズ職人としてのスピノザを知っていたのは確かだし,それはシュラーからの情報だけではなかったと僕は思うのです。