スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

日刊スポーツ賞東京湾カップ&人間精神の能動

2018-05-05 19:00:19 | 地方競馬
 3日の第32回東京湾カップ
 まずクレイジーアクセルがハナへ。この後ろは取り合いのような形になりましたがエターナルモールが単独で2番手を確保。3番手にミスターバッハ。1コーナーで外を回らされたデイジーカーニバルは4番手。5番手にユニバーサルライト。6番手がレベルスリー。7番手はスプリングマンとマッドドッグ。9番手にフレアリングダイヤ。10番手はヴオロス,トーセンブル,ナムラバンザイの3頭。後方2番手がエヌティプリンスで最後尾にカットイン。わりと縦長の隊列になりました。
 デイジーカーニバルはずっと外を回っていましたが3コーナーを回っても外から進出。エターナルモールはここで一杯になり,一時的に2番手と3番手は差が開きました。直線は粘るクレイジーアクセルとデイジーカーニバルの競り合い。デイジーカーニバルは直線の途中で腰をひねってしまったために急激に失速してしまい,二枚腰を使って逃げ切ったクレイジーアクセルが優勝。一旦は離されましたが直線でまた詰め寄ってきたユニバーサルライトが1馬身半差で2着。後方から内目を回って追い上げ,失速したデイジーカーニバルとユニバーサルライトの間に進路を確保したフレアリングダイヤがクビ差で3着。デイジーカーニバルは1馬身半差の4着で,ユニバーサルライトの外を伸びたミスターバッハがクビ差の5着。
 優勝したクレイジーアクセルは南関東重賞初制覇。昨年11月のローレル賞で急カーブを曲がり切れずに大外を回ってそれでも4着と一定の素質をみせていました。今年に入ってからの3戦は逃げの手に出て1着,4着,1着。立て直した上昇度もありましたので優勝候補の1頭。ただ,2着馬と3着馬はこのレースのトライアルも同じ着順。そのときに3馬身差で勝っていたのが4着馬だったことを考えると,デイジーカーニバルがアクシデントで力を発揮できなかったと判断するのが妥当で,この判断が正しいなら着差からトップクラスとは差がありそうという結論になると思われます。とはいえ直線でみせた粘り腰はなかなかのものでした。逃げ馬は不思議な力を発揮することがありますし,活躍馬が多く出ている牝系であることからも,あまり軽視してしまうのも危険かもしれません。母の父がサクラバクシンオーで祖母の父はスペシャルウィーク。4代母はステラマドリッド。3代母のふたつ下の半妹は2002年のJRA賞で最優秀4歳以上牝馬に選出されたダイヤモンドビコー
 騎乗した大井の御神本訓史騎手は桜花賞以来の南関東重賞28勝目。第23回以来9年ぶりの東京湾カップ2勝目。管理している大井の渡辺和雄調教師は東京湾カップ初勝利。南関東重賞は5勝目。

 第二部定理七系の意味は,神Deusのうちにある観念ideaはすべて十全adaequatumであるということでした。第一部定理三六から分かるように,もし神のうちにある観念のどれかを抽出すれば,その観念を原因として何らかの結果が発生します。いい換えればその観念を原因として何らかの観念が発生します。第二部公理三から,思惟の様態cogitandi modiのうち第一のものは観念なので,観念を原因として発生する思惟の様態は第一には観念と規定されなければならないからです。そして再び第二部定理七系の意味に戻れば,このようにして発生するその観念も神のうちでは十全です。
                                
 したがって,神のうちには能動actioだけがあるのであって,受動passioはありません。いい換えれば神は働くagereものであって,働きを受けるpatiものではありません。これは第一部定理一七からも明らかだといえます。
 ただし,神のうちにある観念のすべてが,神が無限に多くのinfinita観念を有する限りで神のうちにあるというわけではありません。たとえば第二部定理九系が示しているのは,もしAというものがあって,そのAというもののうちにXということが生じるのであるとすれば,そのXの観念というのは,神が無限に多くのものの観念を有する限りで神のうちにあるのではなく,神がAの観念を有する限りで神のうちにあるということを示しています。
 そこでもしAという人間が現実的に存在しているとして,Aの身体corpusの観念を有する限りで神のうちにXの観念があるとしてみます。そしてこのXの観念がこの限りにおいて十全であるとして,さらにこのXの観念が原因となってYの観念が発生するのなら,このYの観念もAの身体の観念を有する限りで神のうちで十全であるのです。よってこれは神にとっての能動ではありますが,この神はAの身体の観念を有する限りでの神でもあるので,Aの身体の観念にとっての能動でもあるのです。そして第二部定理一三によれば,Aの身体の観念とはAの精神mensのことですから,これはAの精神の能動であるという意味になります。
 このために,Aの精神のうちにXという十全な観念があり,そのXの観念だけが原因となってYが生じても,これはXの能動ではなくAの精神の能動です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする