スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

叡王戦&保証

2018-05-08 19:00:35 | 将棋
 4月28日に宗像大社で指された第3期叡王戦七番勝負第二局。
 高見泰地六段の先手で相矢倉模様の出だしでしたが飛車先を交換して棒銀へ。後手の金井恒太六段は早繰り銀。力戦の相居飛車戦で,後手の方が指し方が難しいとすれば,後手として不満のない進展になっていたように思えます。
                                     
 先手が6四の桂馬を成った局面。後手は☖7五馬とただのところへ飛び出して☗同金に☖6六銀と打っていきました。☖3三馬と逃げる手もあり,それでじり貧になるとも思えないので,これは決めにいったとみてよいのではないでしょうか。ただこれがやり過ぎで,後手は負けにしてしまったのではないかと思われます。
 先手は☗9九飛とと金を取って逃げ道を広げ,後手もすぐに決められるわけではないので☖7五銀と補充。先手はそこで☗4五銀と桂馬を取り☖同歩に☗2三桂☖2二王の交換を入れた上で☗2四馬と後手の玉頭に逃げました。後手は☖1一香。
 先手は2四の馬が攻めの基軸になっているのですぐに☗3一角と打っていきそうですが☗2九飛と飛車も使いにいきました。対して☖2五歩と飛車道を遮断する手を指しましたが,攻めの基軸である馬に直接的に働きかける方がよかったかもしれません。この二手は明らかに先手の言い分が通った形で☗3一角がより厳しい手となりました。
                                     
 第2図となっては後手は受けきることは不可能。先手が勝ちの局面です。
 高見六段が連勝。第三局は12日です。

 もう一点は真理性すなわち観念ideaの十全性と直接的に関連することなので,ここでの考察との関連性からはより重要です。ただ,僕はこのことをどのように説明するのが適切であるかよく分からないので,ことによると誤解を招きかねないような内容になるかもしれません。なので前もっていっておきますが,この点について中途で疑問を抱かれたとしても,僕のいわんとするところを最後までよく読んで理解するようにしてください。
 僕は人間の精神mens humanaがそれ単独でみられる場合に,その精神の一部を構成する観念の十全性を保証する定理Propositioは第二部定理四〇であるといいました。その理由は,第一部公理四からして,結果として生じる観念の真理性を保証するのはその原因でなければならず,結果として生じる観念が十全な観念idea adaequataであるということをその原因から明示している定理が第二部定理四〇であるからです。
 ただし,これは原因である十全な観念が,結果として発生する十全な観念の十全性を一方的に保証するというものではありません。むしろ原因となっている観念から結果としてある観念が生じるがゆえに,原因である十全な観念は結果である十全な観念の真理性を保証することができるのです。これは無意味な仮定かもしれませんが,もしある観念が人間の精神のうちで十全adaequatumであるとしても,この観念が原因となって何の観念も発生しないのであれば,その観念は何事かの真理性を保証するということはできません。
 これは,何かが何かを保証するという場合には,保証するものと保証されるものがあるから何かは何かを保証することが可能なのであって,保証されるべきものが何もないとしたら,どんなものであろうと何かを保証することはできないということを一般的には意味するのであって,当然といえば当然といえるかもしれません。しかし,それは保証するものからみた場合にそうなのであり,保証されるものの方からみた場合にはそうともいいきれません。実際に保証されるべきことがあって,その保証を求めているという場合に,その原因がそれを保証してくれるのであれば,原因の方が一方的に結果を保証しているかのようにみえる筈だからです。
コメント
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