第三部定理四四は,憎しみodiumが愛amorに征服されたなら,その憎しみは愛に変じ,かつその愛は,その対象objectumを憎んでいなかった場合の愛よりも大きくなるということをいっています。つまり,憎んでいるものを愛するようになることと,愛しても憎んでもいなかったものを愛するようになる場合を比べたら,ほかの条件が一致する限り,憎んでいるものを愛するようになる場合の方が,より大きな愛で愛するようになるといっています。
ただこのうち,憎んでいるものを愛する場合の方がより大きな愛で愛するようになるということは,もっと一般的にいえます。一般的にというのは,愛は第三部諸感情の定義六により喜びlaetitiaの一種であり,憎しみは第三部諸感情の定義七によって悲しみtristitiaの一種ですが,このことは基本感情affectus primariiである喜びと悲しみの場合について妥当するのです。すなわち,悲しんだ後に喜ぶようになるのと,悲しみを感じぬままに喜ぶようになることを比べたら,他の条件が一致する限り,悲しんだ後に喜ぶ方がより大きな喜びを感じられるのです。
このことはこの定理Propositioに附せられた備考Scholiumの冒頭部分から明らかです。
「事情はかくのごとくであるけれども,何びともしかしあとでこのより大なる喜びを享楽しようとしてあるものを憎んだり・悲しみを感じたりするように努めはしないであろう」、
ここでは明らかに喜びと悲しみが比較されているのであって,愛と憎しみが比較されているのではありません。つまり第三部定理四四でいわれていることの少なくとも後半部分は,喜びと悲しみの場合でも妥当するのです。
病気が回復して得られる健康の喜びは,健康状態でいるときの喜びより大なる喜びです。このことはたぶん僕たちが経験的に理解できるところで,定理でいわれていることが正しいのは明白でしょう。と同時に,その大きな喜びを感じるために病気になろうとは僕たちはしません。ですから備考の冒頭でいわれていることが正しいということも,経験的に明白だといってよいでしょう。
悪malumは必ず外部から訪れます。しかし外部から訪れるものはすべて悪であるわけではありません。悪は外部から訪れますが,善bonumが外部から訪れることもあるからです。
僕がいわゆる「ご主人様」に言及しておいたのはこのためです。もし彼女の行動がその「ご主人様」に命ぜられた上での行動であるなら,彼女がそうした嗜好すなわち欲望cupiditasを有している限りで,というか僕はこのことも前提してよいと解していますが,念のためにそうでない場合のことも踏まえてそういっているにすぎませんが,彼女にとってその「ご主人様」との出会いはよい出会いであった,すなわち善であったということになります。同様に「ご主人様」がそうした嗜好すなわち欲望を有しているのなら,「ご主人様」にとっても彼女との出会いはよい出会いすなわち善であったということになるでしょう。
こうしたことはもっと一般的にいえるのであって,たとえばある特定のサディスティックな願望をもっている人間と,それと同じ特定のマゾヒスティックな願望を有した人間が出会うなら,それは双方にとってよい出会いすなわち両者にとっての善であると解さなければなりません。あるいは「寝盗られ願望」を有する人間にとって,パートナーを寝盗る人間との出会いは,よい出会いすなわち善である,もっと極端にいえばそのパートナーとの出会いよりもよい出会い,大なる善であると解するべきなのです。
悪に関してそれを「食あたり」という喩えによって説明できるのに対し,善についてはこれと同様の喩えをすることができないのは,僕たちの現実的本性actualis essentiaはそれ自体で喜びlaetitiaいい換えれば認識されるものとしての善を希求するようになっているからです。要するに悪は僕たちの現実的本性のみによっては説明できないので,何らかの出会いによって説明されなければならないのですが,善についてはそうではなく,単に僕たちの現実的本性のみによって,つまり何らの出会いなしに説明され得る場合があるからです。いい換えれば,僕たちの現実的本性は,僕たちにとっての悪の十全な原因causa adaequataではあり得ないのですが,僕たちの善については十全な原因であるという場合があり得るからです。
ただこのうち,憎んでいるものを愛する場合の方がより大きな愛で愛するようになるということは,もっと一般的にいえます。一般的にというのは,愛は第三部諸感情の定義六により喜びlaetitiaの一種であり,憎しみは第三部諸感情の定義七によって悲しみtristitiaの一種ですが,このことは基本感情affectus primariiである喜びと悲しみの場合について妥当するのです。すなわち,悲しんだ後に喜ぶようになるのと,悲しみを感じぬままに喜ぶようになることを比べたら,他の条件が一致する限り,悲しんだ後に喜ぶ方がより大きな喜びを感じられるのです。
このことはこの定理Propositioに附せられた備考Scholiumの冒頭部分から明らかです。
「事情はかくのごとくであるけれども,何びともしかしあとでこのより大なる喜びを享楽しようとしてあるものを憎んだり・悲しみを感じたりするように努めはしないであろう」、
ここでは明らかに喜びと悲しみが比較されているのであって,愛と憎しみが比較されているのではありません。つまり第三部定理四四でいわれていることの少なくとも後半部分は,喜びと悲しみの場合でも妥当するのです。
病気が回復して得られる健康の喜びは,健康状態でいるときの喜びより大なる喜びです。このことはたぶん僕たちが経験的に理解できるところで,定理でいわれていることが正しいのは明白でしょう。と同時に,その大きな喜びを感じるために病気になろうとは僕たちはしません。ですから備考の冒頭でいわれていることが正しいということも,経験的に明白だといってよいでしょう。
悪malumは必ず外部から訪れます。しかし外部から訪れるものはすべて悪であるわけではありません。悪は外部から訪れますが,善bonumが外部から訪れることもあるからです。
僕がいわゆる「ご主人様」に言及しておいたのはこのためです。もし彼女の行動がその「ご主人様」に命ぜられた上での行動であるなら,彼女がそうした嗜好すなわち欲望cupiditasを有している限りで,というか僕はこのことも前提してよいと解していますが,念のためにそうでない場合のことも踏まえてそういっているにすぎませんが,彼女にとってその「ご主人様」との出会いはよい出会いであった,すなわち善であったということになります。同様に「ご主人様」がそうした嗜好すなわち欲望を有しているのなら,「ご主人様」にとっても彼女との出会いはよい出会いすなわち善であったということになるでしょう。
こうしたことはもっと一般的にいえるのであって,たとえばある特定のサディスティックな願望をもっている人間と,それと同じ特定のマゾヒスティックな願望を有した人間が出会うなら,それは双方にとってよい出会いすなわち両者にとっての善であると解さなければなりません。あるいは「寝盗られ願望」を有する人間にとって,パートナーを寝盗る人間との出会いは,よい出会いすなわち善である,もっと極端にいえばそのパートナーとの出会いよりもよい出会い,大なる善であると解するべきなのです。
悪に関してそれを「食あたり」という喩えによって説明できるのに対し,善についてはこれと同様の喩えをすることができないのは,僕たちの現実的本性actualis essentiaはそれ自体で喜びlaetitiaいい換えれば認識されるものとしての善を希求するようになっているからです。要するに悪は僕たちの現実的本性のみによっては説明できないので,何らかの出会いによって説明されなければならないのですが,善についてはそうではなく,単に僕たちの現実的本性のみによって,つまり何らの出会いなしに説明され得る場合があるからです。いい換えれば,僕たちの現実的本性は,僕たちにとっての悪の十全な原因causa adaequataではあり得ないのですが,僕たちの善については十全な原因であるという場合があり得るからです。