スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

羽田盃&定義論との関係

2018-05-10 19:06:53 | 地方競馬
 昨晩の第63回羽田盃
 発走後の正面から1コーナーにかけて先行争いがあり,先手を奪ったのはヤマノファイト。2番手のリコーワルサーにスプリングマンが押さえきれずに並び掛け,4番手にポンドゼルク。5番手がハセノパイロで先行争いの一角だったワグナーコーヴは6番手に。7番手のモジアナフレイバーまでは一団。1馬身半ほど差があり中団はクロスケ,ルーレットスピナー,ムシカリ,マースインディ,クリスタルシルバーの順で5頭。ここから6馬身ほど開いてトーセンブルが後方2番手。さらに5馬身ほどあって最後尾にキャスタウェイという隊列。最初の800mは50秒3のミドルペース。
 3コーナーを回るとヤマノファイトにリコーワルサーが並び掛け,この時点で内の3番手にいたハセノパイロは遅れ始め,外からモジアナフレイバーが追い上げてきて3番手に。直線はヤマノファイト,リコーワルサー,モジアナフレイバーの3頭が競り合い。モジアナフレイバーの勢いが最もよかったのですが意外にも最初に脱落。ヤマノファイトが一旦はリコーワルサーとの差を広げ,最後はまた差を詰められる形になったものの逃げ切って優勝。リコーワルサーが1馬身差で2着。直線の手前では遅れたのですがモジアナフレイバーの外からまた伸びてきたハセノパイロが1馬身差で3着。モジアナフレイバーが1馬身半差で4着。
 優勝したヤマノファイトは前哨戦の京浜盃に続いて南関東転入後はこれで南関東重賞3連勝。不良馬場の影響で差しが決まりにくくなった上,ペースもさほど上がらなかったことが優勝の要因となりました。派手なレースをするわけでもなく着差もつけるわけではないのでレースぶりからは強さがあまり感じられないかもしれませんが,京浜盃,羽田盃と根幹レースを連勝した以上,現時点で南関東の3歳馬のトップに君臨しているとみなければならないでしょう。むしろこういうタイプの馬が本当に強いということもよくあることです。東京ダービーはまた距離が延長しますが,そのこと自体が大きなマイナスになることはないと思います。父はエスポワールシチー。6代母がクレアーブリッジの祖母。
 騎乗した船橋の本橋孝太騎手は京浜盃以来の南関東重賞15勝目。羽田盃は初勝利。管理している船橋の矢野義幸調教師は南関東重賞15勝目。第60回以来3年ぶりの羽田盃2勝目。

 もうひとつの観点がおそらく重要です。原因causaである十全な観念idea adaequataが結果effectusである十全な観念の十全性を保証するのですが,それはその原因の観念が結果の観念と組み合わさることによって保証が可能になるという場合が想定されるからです。いい換えれば,原因の観念というのはそれ単独でみられるならば必ずしも十全adaequatumであるとはいえず,しかしその結果との組み合わせとして十全であるとみられるという場合があり得るのです。いつの場合でもそうというわけではありません。そのような場合も人間の精神mens humanaのうちでは生じ得るという意味です。
 これについては実例をあげる方が容易に理解されるのではないかと思います。
                                    
 スピノザは『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』の95節から98節にかけてや,シモン・ド・フリースSimon Josten de Vriesに宛てた書簡九などで,定義論というべき議論を展開しています。そしてその中に,事物の定義Definitioにはその事物の発生が含まれていなければならないというものがあります。これもかつて詳細に検討したことなので,ここでは簡潔にいいますが,僕はたとえば『エチカ』における定義のすべてがその条件を満たしているとは考えていません。したがってここでは,事物の定義には定義される事物の発生が含まれていることが好ましいというのがスピノザの考え方であると解釈しておきましょう。
 これはいい換えると,事物の定義にはその事物の原因が含まれているのが好ましいということです。なぜなら,スピノザの哲学においては原因は一律的に起成原因causa efficiensを意味するのであって,起成原因とはその事物が発生する原因であるというように解して差し支えないからです。これを,原因の観念が結果の観念の十全性を保証するということに当て嵌めるなら,事物の定義はその事物の十全性を保証するのが好ましいということになるでしょう。もちろん定義される事物は思惟の様態cogitandi modiであるとは限らないので,ここで十全性ということをもち出すのは本来は好ましいことではないですが,定義される事物が知性intellectusによって十全に認識されるために,定義のうちにその事物の発生が含まれているのが好ましいというように定義論を解すれば,このようないい換えは無理筋ではないでしょう。
コメント
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