スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

農林水産大臣賞典東京プリンセス賞&発生と本性

2018-05-11 19:40:12 | 地方競馬
 昨晩の第32回東京プリンセス賞
 前に行く構えをみせたのは4頭。枠なりといった感じでストロングハートがハナに。2番手にプロミストリープで3番手がグラヴィオーラ。内からコーナーワークを利してアティテュードが4番手。行く構えをみせたうちのシングンレガシイは内のベニアカリと並んで5番手に。7番手はオールパスレル,ゴールドパテック,ジョワアンジュの3頭。直後のパパドプロスまでは集団。ここから3馬身くらい離れてカズミドリーム,ミスマンマミーア,レッドウルルの3頭。その後ろにビクトリアペガサスでさらにミスサハラまでは一団。6馬身ほど遅れた最後尾にゴールデンダイヤ。
 3コーナーを回るとストロングハートにプロミストリープが並び掛け,さらにその外まで追い上げたグラヴィオーラの3頭で4番手以下を離し始めました。直線に入って3頭の競り合いからストロングハートがまず脱落。絶好の手応えだったグラヴィオーラがプロミストリープの前に出ると,プロミストリープも食い下がろうとしましたが残り200mくらいでギブアップ。そこからはグラヴィオーラが突き放す一方となり最後は流して楽勝。プロミストリープが7馬身差の2着。大外を追い上げたゴールドパテックが最初に脱落したストロングハートを捕えて7馬身差で3着。ストロングハートは1馬身4分の3差で4着。半馬身差の5着にもシングンレガシイが入り,実力上位の5頭が上位を独占する決着。
 優勝したグラヴィオーラ東京2歳優駿牝馬以来の南関東重賞2勝目。ここは桜花賞が鮮烈だったプロミストリープが最有力候補。大井コースに変わるのも有利に思えましたが,条件が変わるのも事実で絶対視はできないところ。グラヴィオーラは今年の2戦は浦和の小回りコースに対応しきれていない面が窺えましたので,優勝というケースもあり得るとは思っていました。ただ,プロミストリープが前走とは違った形のレースになり,それを大名マークすることができた有利さはありましたが,こんなに差をつけて勝てたのは意外。2歳時はストロングハートと同程度の能力でしたが,現時点では凌駕したとみてよいでしょう。少なくともこのくらいの距離になればストロングハートに負けるというシーンは今後は考えにくいです。川崎コースへの対応が課題ですが,関東オークスで中央馬を相手にしても能力的には有力候補になり得るでしょう。大井コースがよいということなら東京ダービーに向かうのも選択肢のひとつ。馬場の含水率には違いがあった筈ですが,記録面は羽田盃より優秀とみることも可能なので,牡馬相手でも勝ち負けが可能な馬だと思います。父はサウスヴィグラス。母の父はタニノギムレット。母のひとつ上の半兄にスクリーンヒーロー。3代母がダイナアクトレスで5代母がマジックゴディス。Graviolaはポルトガル語でサワーソップという植物の名前。
 騎乗した川崎の今野忠成騎手は東京2歳優駿牝馬以来の南関東重賞35勝目。第18回,20回,26回,27回に続き5年ぶりの東京プリンセス賞5勝目。管理している船橋の佐藤賢二調教師は第20回以来12年ぶりの東京プリンセス賞2勝目。

 スピノザが示している定義Definitioの条件というのは,定義される事物の発生すなわち原因に関わるものだけではありません。これとは別に,定義には定義される事物の本性essentiaが含まれていなければならないというものもあります。僕はこのことについても『エチカ』で示されているすべての定義が満たしている条件であるとは考えていませんが,これも原因に関する場合と同様に,詳しいことは当時の考察を参照してください。スピノザは事物の特質proprietasというのは本性から必然的にnecessario帰結するとしています。つまりこの条件が実際に意味しているところは,定義からは定義された事物の諸特質が帰結するのが好ましいということになるでしょう。
                                
 原因に関する条件と,本性に関する条件は,ある点においては対立します。なぜなら,原因というのは結果とは別のものであるから原因といわれ得るのです。そしてこのとき,原因といわれ得るものは結果といわれ得るものに対しては,本性naturaの上で先行していなければなりません。いい換えれば結果は原因がなければあることも考えるconcipereこともできませんが,原因というのは,それが結果に対する原因とみられるのでない限りは,結果がなくてもあることも考えることもできます。つまりAが原因となってBが発生するというとき,Bは第一部公理四によってAがなければ考えられない,すなわち認識され得ないのですが,AはBがなくても考えることはできるのです。これに対して本性はそうではありません。第二部定義二から理解できるように,あるものはその本性がなければあることも考えることもできませんが,その本性というのもあるものがなければあることも考えることもできないようなあるものなのです。つまりAの本性がBであるなら,AはBなしにはあることも考えることもできませんが,BもまたAがなければあることも考えることもできないのです。
 これらの条件を本来的な意味で同時に満たすには,原因と本性が同一でなければなりません。しかしそうしたものは第一部定義一で自己原因causam suiといわれるのであり,自己原因以外は何も定義することができなくなってしまいます。それでも定義は両条件を満たすのが好ましいのです。
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