南三条は③で歌われた2番の中盤の部分が,最後の部分で覆されることになります。
ほんとは違うわかっているの私と切れて後のことだと
でも憎まずにはいられなかったの
中盤の部分まで,この楽曲は,②で声を掛けられた方の女が,かつて付き合っていた男を声を掛けた方の女に奪われ,しかし声を掛けた方の女は自分が奪ったということを知らず,そのために声を掛けた女に対して無邪気に振る舞うことができたという内容で一貫性がありました。ですからこの声を掛けられた方の女の告白は,歌い手すなわち声を掛けられた方の女にとってはそうではなくても,楽曲を聞いている聴き手にとってはひどく意外なものに感じられる筈です。
声を掛けられた女がかつてAという男と付き合っていたのですが,何らかの理由によって別れることになりました。おそらく別れ話を切り出したのはAの方で,女の方は何らかの事情があって渋々ながらその別れを受け入れざるを得なかったのでしょう。その後に,Aは声を掛けた方の女と交際を始めました。たぶん声を掛けた女は,かつてAが声を掛けられた方の女と付き合っていたということは知らずに付き合うようになったのでしょう。これが実際に過去に起こった出来事であったのです。
声を掛けられた方の女は,未練がありましたから,自分が別れなければならなかった理由を,真実ではないと自分が知っていたことに対して求めたわけです。ですから声を掛けられた方の女が声を掛けた方の女のことを憎んだのは,俗なことばでいえば八つ当たり以外の何ものでもありません。とはいえ,かつての恋人と新しく付き合うようになった女を憎んでしまうのは,女の現実的な本性からすれば自然なことであるともいえます。
ところが,この楽曲はさらに意外な方向に進みます。声を掛けられた方の女も知らなかったことが露見することになるのです。
彼女がなした行動について,それを彼女自身に対して否定するというのは誤りであるあるいはナンセンスであるというのが,スピノザの哲学の原理的な評価になると僕は考えます。なぜなら,それがどのような内容を伴っているのかということに関わりなく,嗜好とか願望といった類のものは,感情affectusとしていえば欲望cupiditasに分類されなければなりません。したがってそれは,第三部諸感情の定義一により,そうした嗜好や願望を有する人間にとっての現実的本性actualis essentiaにほかなりません。しかるに人間の現実的本性は喜びlaetitiaを追求し悲しみtristitiaを忌避するようになっているので,欲望が現実化されるならそれは当人にとっての喜びであり,逆に欲望の現実化が阻害されるのであればそれは当人にとっての悲しみであることになります。いい換えれば第四部定理八により,欲望の現実化は当人にとっての善bonumであり,現実化の阻害は悪malumです。したがってそれがどのような欲望であったとしても,それを現実のものにするのは欲望する人間にとっては善なのですから,それをその当人に対して否定するのは誤りです。少なくともナンセンスです。なぜならそれは善を否定し悪を肯定しているのに等しくなってしまうからです。
いわんとする趣旨は異なりますが,スピノザがこれに類することをいっているのはブレイエンベルフWillem van Blyenburgに宛てた書簡二十三です。そこでは,もし食卓につくより絞首台に立つ方がよりよく生きると分かっているなら,その人間が絞首台に立たないのは愚かなことであり,徳virtusの追求より犯罪の遂行が完全で善なる生活の享受に有益だと分かっているなら,その人間が犯罪を犯さないのはやはり愚かなことであるといわれているからです。スピノザは人間の本性を理性的なものと欲望的なもの,いい換えれば能動的なものと受動的なものとに分類し,書簡のこの部分は理性的な現実的本性からは生じ得ないことについてブレイエンベルフに質問されたので,その質問自体がおかしなものであるということを示すためにこのように書いたのですが,これはごく一般論に帰してしまえば,善と分かっている事柄を追求しないならそれは愚かなことであるといっているのに等しいことにはなるでしょう。
ほんとは違うわかっているの私と切れて後のことだと
でも憎まずにはいられなかったの
中盤の部分まで,この楽曲は,②で声を掛けられた方の女が,かつて付き合っていた男を声を掛けた方の女に奪われ,しかし声を掛けた方の女は自分が奪ったということを知らず,そのために声を掛けた女に対して無邪気に振る舞うことができたという内容で一貫性がありました。ですからこの声を掛けられた方の女の告白は,歌い手すなわち声を掛けられた方の女にとってはそうではなくても,楽曲を聞いている聴き手にとってはひどく意外なものに感じられる筈です。
声を掛けられた女がかつてAという男と付き合っていたのですが,何らかの理由によって別れることになりました。おそらく別れ話を切り出したのはAの方で,女の方は何らかの事情があって渋々ながらその別れを受け入れざるを得なかったのでしょう。その後に,Aは声を掛けた方の女と交際を始めました。たぶん声を掛けた女は,かつてAが声を掛けられた方の女と付き合っていたということは知らずに付き合うようになったのでしょう。これが実際に過去に起こった出来事であったのです。
声を掛けられた方の女は,未練がありましたから,自分が別れなければならなかった理由を,真実ではないと自分が知っていたことに対して求めたわけです。ですから声を掛けられた方の女が声を掛けた方の女のことを憎んだのは,俗なことばでいえば八つ当たり以外の何ものでもありません。とはいえ,かつての恋人と新しく付き合うようになった女を憎んでしまうのは,女の現実的な本性からすれば自然なことであるともいえます。
ところが,この楽曲はさらに意外な方向に進みます。声を掛けられた方の女も知らなかったことが露見することになるのです。
彼女がなした行動について,それを彼女自身に対して否定するというのは誤りであるあるいはナンセンスであるというのが,スピノザの哲学の原理的な評価になると僕は考えます。なぜなら,それがどのような内容を伴っているのかということに関わりなく,嗜好とか願望といった類のものは,感情affectusとしていえば欲望cupiditasに分類されなければなりません。したがってそれは,第三部諸感情の定義一により,そうした嗜好や願望を有する人間にとっての現実的本性actualis essentiaにほかなりません。しかるに人間の現実的本性は喜びlaetitiaを追求し悲しみtristitiaを忌避するようになっているので,欲望が現実化されるならそれは当人にとっての喜びであり,逆に欲望の現実化が阻害されるのであればそれは当人にとっての悲しみであることになります。いい換えれば第四部定理八により,欲望の現実化は当人にとっての善bonumであり,現実化の阻害は悪malumです。したがってそれがどのような欲望であったとしても,それを現実のものにするのは欲望する人間にとっては善なのですから,それをその当人に対して否定するのは誤りです。少なくともナンセンスです。なぜならそれは善を否定し悪を肯定しているのに等しくなってしまうからです。
いわんとする趣旨は異なりますが,スピノザがこれに類することをいっているのはブレイエンベルフWillem van Blyenburgに宛てた書簡二十三です。そこでは,もし食卓につくより絞首台に立つ方がよりよく生きると分かっているなら,その人間が絞首台に立たないのは愚かなことであり,徳virtusの追求より犯罪の遂行が完全で善なる生活の享受に有益だと分かっているなら,その人間が犯罪を犯さないのはやはり愚かなことであるといわれているからです。スピノザは人間の本性を理性的なものと欲望的なもの,いい換えれば能動的なものと受動的なものとに分類し,書簡のこの部分は理性的な現実的本性からは生じ得ないことについてブレイエンベルフに質問されたので,その質問自体がおかしなものであるということを示すためにこのように書いたのですが,これはごく一般論に帰してしまえば,善と分かっている事柄を追求しないならそれは愚かなことであるといっているのに等しいことにはなるでしょう。