第23回NHKマイルカップ。
カツジとプリモシーンはほかの16頭より1馬身から2馬身くらい遅れるような発馬。まずダノンスマッシュが先頭に立ちましたが,内から制したテトラドラクマの逃げに。2番手以下はダノンスマッシュ,フロンティア,ファストアプローチ,ミスターメロディの順で続き,その後ろにギベオンとカシアスの2頭。その後ろはカツジ,リョーノテソーロ,パクスアメリカーナ,ロックディスタウンの4頭。さらにタワーオブロンドンが続いてアンコールブリュとレッドヴェイロンの2頭もほぼ同じ位置。以下はプリモシーン,ルーカス,ケイアイノーテック,デルタバローズと続きました。前半の800mは46秒3のミドルペース。
直線に入るところでもテトラドラクマが先頭でしたが,ダノンスマッシュとミスターメロディが外から並び掛けました。このときダノンスマッシュとミスターメロディの間に間隔があったのでギベオンがそこを突いて先頭に。内の2頭は追えませんでしたが外のミスターメロディとさらに外から伸びてきたレッドヴェイロンの2頭がギベオンを追い掛ける形。ミスターメロディは脱落し,ギベオンはレッドヴェイロンの追撃は一杯に凌ぎましたがさらに外から差してきたケイアイノーテックの伸び脚が優り,フィニッシュの直前で差し切って優勝。レースの展開面から仕方がなかったのですが結果的にやや早仕掛けとなってしまったギベオンがクビ差の2着。レッドヴェイロンがアタマ差で3着。
優勝したケイアイノーテックは重賞初勝利で大レース制覇。とはいえ昨年6月に新馬を勝った後,デイリー杯2歳ステークスが3着で朝日杯フューチュリティステークスも4着。今年に入って初戦の500万は2着でしたが3月に勝ち上がり,トライアルのひとつであるニュージーランドトロフィーで2着と,きわめて安定した成績を収め,重賞は手が届くところまできていました。上位が大接戦となったように,能力的に抜けているというわけではなく,同じようなメンバーで戦えば,互いに勝ったり負けたりという結果が続いていくものと思われます。父はディープインパクト。母は2010年のプロキオンステークス,2011年のカペラステークスに勝ったケイアイガーベラ。Nautiqueはフランス語で航海。
騎乗した藤岡佑介騎手は2012年の全日本2歳優駿以来の大レース3勝目。NHKマイルカップは初勝利。管理している平田修調教師は2日のかしわ記念に続いての大レース5勝目。第17回以来6年ぶりのNHKマイルカップ2勝目。
ある人間の精神mens humanaないしは知性intellectusの全体が十全な原因causa adaequataになっている場合がその人間の精神ないしは知性の能動actioであるわけでなく,この精神ないしは知性の一部を構成している十全な観念idea adaequataが原因となって別の観念が発生する場合も,この人間の精神ないしは知性の能動であるということは,ここまでの説明からお分かりいただけたものと思います。そしてこれが分かれば,第二種の認識cognitio secundi generisにおける十全性ないしは真理性の保証も,十全な原因と十全な観念の間に不可分離的な関係があるということから説明することができます。
一方,第二部定理一一系の具体的意味から,Aという人間の精神ないしは知性のうちにXの混乱した観念idea inadaequataがあるということは,Aの精神ないしは知性の本性naturaを構成する,いい換えればAの身体corpusの観念を有するとともに,ほかのものの観念を有する限りで神のうちにXの十全な観念があるということでした。このことを利用すれば,Aの精神あるいは知性のうちにあるXの混乱した観念が原因となって別の観念が発生する場合は,単にそのXの観念が部分的原因causa partialisとなっているわけではなく,Aの精神ないしは知性が部分的原因であると解してよいということも説明できます。なぜなら,Aの身体の観念を有するとともにほかの観念を有する限りで神のうちにある観念から生じる観念は,同様に,Aの身体の観念を有するとともにほかのものの観念を有する限りで神のうちで十全であるからです。しかしこのことは同じことの繰り返しになりますし,観念の真理性すなわち十全性の保証を求めるためには役立ちませんから,割愛します。
次に,第二種の認識というのは共通概念notiones communesを基礎とした認識です。そして人間は現実的に存在するなら,必ずその精神の一部は共通概念によって組織されます。これは第二部定理三八系から明白です。したがって第二部定理四〇が観念の十全性を保証するというのは,論理的にそうであるということだけを意味しているわけではなく,現実的にそれを意味していることになります。いい換えればこの保証は現実的なものである,とくに僕たちの精神ないしは知性がそれ単独で把握される場合に現実的なものであるということになります。
カツジとプリモシーンはほかの16頭より1馬身から2馬身くらい遅れるような発馬。まずダノンスマッシュが先頭に立ちましたが,内から制したテトラドラクマの逃げに。2番手以下はダノンスマッシュ,フロンティア,ファストアプローチ,ミスターメロディの順で続き,その後ろにギベオンとカシアスの2頭。その後ろはカツジ,リョーノテソーロ,パクスアメリカーナ,ロックディスタウンの4頭。さらにタワーオブロンドンが続いてアンコールブリュとレッドヴェイロンの2頭もほぼ同じ位置。以下はプリモシーン,ルーカス,ケイアイノーテック,デルタバローズと続きました。前半の800mは46秒3のミドルペース。
直線に入るところでもテトラドラクマが先頭でしたが,ダノンスマッシュとミスターメロディが外から並び掛けました。このときダノンスマッシュとミスターメロディの間に間隔があったのでギベオンがそこを突いて先頭に。内の2頭は追えませんでしたが外のミスターメロディとさらに外から伸びてきたレッドヴェイロンの2頭がギベオンを追い掛ける形。ミスターメロディは脱落し,ギベオンはレッドヴェイロンの追撃は一杯に凌ぎましたがさらに外から差してきたケイアイノーテックの伸び脚が優り,フィニッシュの直前で差し切って優勝。レースの展開面から仕方がなかったのですが結果的にやや早仕掛けとなってしまったギベオンがクビ差の2着。レッドヴェイロンがアタマ差で3着。
優勝したケイアイノーテックは重賞初勝利で大レース制覇。とはいえ昨年6月に新馬を勝った後,デイリー杯2歳ステークスが3着で朝日杯フューチュリティステークスも4着。今年に入って初戦の500万は2着でしたが3月に勝ち上がり,トライアルのひとつであるニュージーランドトロフィーで2着と,きわめて安定した成績を収め,重賞は手が届くところまできていました。上位が大接戦となったように,能力的に抜けているというわけではなく,同じようなメンバーで戦えば,互いに勝ったり負けたりという結果が続いていくものと思われます。父はディープインパクト。母は2010年のプロキオンステークス,2011年のカペラステークスに勝ったケイアイガーベラ。Nautiqueはフランス語で航海。
騎乗した藤岡佑介騎手は2012年の全日本2歳優駿以来の大レース3勝目。NHKマイルカップは初勝利。管理している平田修調教師は2日のかしわ記念に続いての大レース5勝目。第17回以来6年ぶりのNHKマイルカップ2勝目。
ある人間の精神mens humanaないしは知性intellectusの全体が十全な原因causa adaequataになっている場合がその人間の精神ないしは知性の能動actioであるわけでなく,この精神ないしは知性の一部を構成している十全な観念idea adaequataが原因となって別の観念が発生する場合も,この人間の精神ないしは知性の能動であるということは,ここまでの説明からお分かりいただけたものと思います。そしてこれが分かれば,第二種の認識cognitio secundi generisにおける十全性ないしは真理性の保証も,十全な原因と十全な観念の間に不可分離的な関係があるということから説明することができます。
一方,第二部定理一一系の具体的意味から,Aという人間の精神ないしは知性のうちにXの混乱した観念idea inadaequataがあるということは,Aの精神ないしは知性の本性naturaを構成する,いい換えればAの身体corpusの観念を有するとともに,ほかのものの観念を有する限りで神のうちにXの十全な観念があるということでした。このことを利用すれば,Aの精神あるいは知性のうちにあるXの混乱した観念が原因となって別の観念が発生する場合は,単にそのXの観念が部分的原因causa partialisとなっているわけではなく,Aの精神ないしは知性が部分的原因であると解してよいということも説明できます。なぜなら,Aの身体の観念を有するとともにほかの観念を有する限りで神のうちにある観念から生じる観念は,同様に,Aの身体の観念を有するとともにほかのものの観念を有する限りで神のうちで十全であるからです。しかしこのことは同じことの繰り返しになりますし,観念の真理性すなわち十全性の保証を求めるためには役立ちませんから,割愛します。
次に,第二種の認識というのは共通概念notiones communesを基礎とした認識です。そして人間は現実的に存在するなら,必ずその精神の一部は共通概念によって組織されます。これは第二部定理三八系から明白です。したがって第二部定理四〇が観念の十全性を保証するというのは,論理的にそうであるということだけを意味しているわけではなく,現実的にそれを意味していることになります。いい換えればこの保証は現実的なものである,とくに僕たちの精神ないしは知性がそれ単独で把握される場合に現実的なものであるということになります。