スピノザは英語はできなかったということをいったときに,書簡二十六を援用しました。この書簡をざっと説明しておきます。

これは1665年5月にスピノザからオルデンブルクHeinrich Ordenburgに宛てられたもの。遺稿集Opera Posthumaにも掲載されました。
これは書簡二十五への返信で,書簡二十五を受け取った経緯が説明されています。スピノザはある友人からそれを渡され,その友人はアムステルダムAmsterdamの書簡商から渡されました。書簡商というのが何を意味するのかは僕には不明です。そしてその書簡商は,ピーテル・セラリウスPetrus Serrariusから受け取ったのだろうとスピノザは推測しています。この当時の書簡はこのような複雑な経路でやり取りされるのが一般的であったのでしょう。
スピノザはオルデンブルクの健康状態等について,セラリウスやホイヘンスChristiaan Huygensから聞いていたと書いています。ただその書き方から,セラリウスとオルデンブルクが知り合いであることは前から知っていたけれど,ホイヘンスとオルデンブルクが知り合いであったことは最近になって知ったというように読めます。
ロバート・ボイルRobert Boyleが論文を出したこともホイヘンスから聞いていたといっています。ホイヘンスはその論文を所有していました。また,おそらくロバート・フックの顕微鏡による観察の本もホイヘンスは所有していたともいっています。そしてこれらは英語で書かれていました。もしスピノザが英語に通じていればホイヘンスはそれを貸してくれただろうといっていますので,ここからスピノザが英語はできなかったということが分かります。
この後,土星の環に関する話題に触れられていますが,この部分はおそらくこのブログで用いることはないと思われますから割愛します。
第二部定理三二では神に関係する限りではすべての観念が真であるomnes ideae, quatenus ad Deum referuntur, verae suntといわれています。したがってこの定理Propositioと第二部定理四三を合わせれば,観念が神のうちにあるとみられる限りでは,認識cognitioの欠乏というのは起こりません。他面からいえば,それを認識するcognoscere知性intellectusが誤謬errorを犯すことはあり得ません。それどころか,その知性が虚偽falsitasを認識することすらあり得ないといわなければならないのです。
一方,第二部定理三三では,観念の中に積極的に虚偽といわれるようなものはないといわれています。実はこのことは,前述の事柄と関係しています。なぜならこの定理のスピノザの証明Demonstratioにもあるように,もしも虚偽の形相formaを積極的に構成する観念があるとするなら,それは神のうちにはあることができないということは,第二部定理三二から明らかです。したがってもしもそのような観念があるといわれ得るのであれば,それは神の外になければならないのです。ところが第一部定理一五によって,あるものはすべてが神のうちにあるQuicquid est, in Deo estのですから,何かが神の外にあるということは不可能です。なので,虚偽の形相を積極的に構成するような観念は存在しないといわなければなりません。
では誤った観念idea falsaあるいは混乱した観念idea inadaequataがあるといわれるのはどのような意味においてなのでしょうか。それを示しているのが第二部定理一一系の具体的意味です。すなわちある精神mensの本性naturaを構成するとともに,何か別の観念を有する限りでXの観念が神のうちにある,真の観念としてあるいは十全な観念としてあるといわれる場合に,この精神はXを誤って認識するあるいは混乱して認識するといわれるのです。ここから分かるように,混乱した観念とか誤った観念というのは,有限な知性,第二部定理一一系のいい方に倣うなら神の無限知性intellectus infinitusの一部とみなされるような知性のうちにあるのです。
無限知性の一部とみなされるような知性は,事物を混乱してあるいは誤って認識することがあるのであり,そのときに第二部定理三五でいわれているような認識の欠乏,力potentiaの欠乏を同時に起こす可能性があるので,その事物について単に虚偽として認識するばかりでなく,誤謬を犯す可能性もあります。

これは1665年5月にスピノザからオルデンブルクHeinrich Ordenburgに宛てられたもの。遺稿集Opera Posthumaにも掲載されました。
これは書簡二十五への返信で,書簡二十五を受け取った経緯が説明されています。スピノザはある友人からそれを渡され,その友人はアムステルダムAmsterdamの書簡商から渡されました。書簡商というのが何を意味するのかは僕には不明です。そしてその書簡商は,ピーテル・セラリウスPetrus Serrariusから受け取ったのだろうとスピノザは推測しています。この当時の書簡はこのような複雑な経路でやり取りされるのが一般的であったのでしょう。
スピノザはオルデンブルクの健康状態等について,セラリウスやホイヘンスChristiaan Huygensから聞いていたと書いています。ただその書き方から,セラリウスとオルデンブルクが知り合いであることは前から知っていたけれど,ホイヘンスとオルデンブルクが知り合いであったことは最近になって知ったというように読めます。
ロバート・ボイルRobert Boyleが論文を出したこともホイヘンスから聞いていたといっています。ホイヘンスはその論文を所有していました。また,おそらくロバート・フックの顕微鏡による観察の本もホイヘンスは所有していたともいっています。そしてこれらは英語で書かれていました。もしスピノザが英語に通じていればホイヘンスはそれを貸してくれただろうといっていますので,ここからスピノザが英語はできなかったということが分かります。
この後,土星の環に関する話題に触れられていますが,この部分はおそらくこのブログで用いることはないと思われますから割愛します。
第二部定理三二では神に関係する限りではすべての観念が真であるomnes ideae, quatenus ad Deum referuntur, verae suntといわれています。したがってこの定理Propositioと第二部定理四三を合わせれば,観念が神のうちにあるとみられる限りでは,認識cognitioの欠乏というのは起こりません。他面からいえば,それを認識するcognoscere知性intellectusが誤謬errorを犯すことはあり得ません。それどころか,その知性が虚偽falsitasを認識することすらあり得ないといわなければならないのです。
一方,第二部定理三三では,観念の中に積極的に虚偽といわれるようなものはないといわれています。実はこのことは,前述の事柄と関係しています。なぜならこの定理のスピノザの証明Demonstratioにもあるように,もしも虚偽の形相formaを積極的に構成する観念があるとするなら,それは神のうちにはあることができないということは,第二部定理三二から明らかです。したがってもしもそのような観念があるといわれ得るのであれば,それは神の外になければならないのです。ところが第一部定理一五によって,あるものはすべてが神のうちにあるQuicquid est, in Deo estのですから,何かが神の外にあるということは不可能です。なので,虚偽の形相を積極的に構成するような観念は存在しないといわなければなりません。
では誤った観念idea falsaあるいは混乱した観念idea inadaequataがあるといわれるのはどのような意味においてなのでしょうか。それを示しているのが第二部定理一一系の具体的意味です。すなわちある精神mensの本性naturaを構成するとともに,何か別の観念を有する限りでXの観念が神のうちにある,真の観念としてあるいは十全な観念としてあるといわれる場合に,この精神はXを誤って認識するあるいは混乱して認識するといわれるのです。ここから分かるように,混乱した観念とか誤った観念というのは,有限な知性,第二部定理一一系のいい方に倣うなら神の無限知性intellectus infinitusの一部とみなされるような知性のうちにあるのです。
無限知性の一部とみなされるような知性は,事物を混乱してあるいは誤って認識することがあるのであり,そのときに第二部定理三五でいわれているような認識の欠乏,力potentiaの欠乏を同時に起こす可能性があるので,その事物について単に虚偽として認識するばかりでなく,誤謬を犯す可能性もあります。