スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

埼玉新聞杯埼玉新聞栄冠賞&相違の規準

2019-10-09 19:18:21 | 地方競馬
 第29回埼玉新聞栄冠賞
 カンムルが少し躓いて1馬身の不利。しごいてしごいてディアデルレイがハナへ。2番手にマイネルアウラート,3番手にムサシキングオー,4番手にロジチャリスとサダムリスペクトでこの5頭が先行。2馬身差でキャッスルクラウンとセンチュリオン。4馬身差でキングニミッツ,3馬身差でハセノパイロ,2馬身差でエスケイアリュール,そして2馬身差でカンムルと,1周目の正面に入るまでかなり縦長。正面で少し凝縮しました。ただ,全体的にはスローペースだったのではないかと思います。
 向正面でセンチュリオンが外から上がっていったことでレースが動きました。マイネルアウラート,ロジチャリス,サダムリスペクトの3頭はすぐに後退。やや抵抗したムサシキングオーも3コーナー手前で一杯になり,あとは逃げるディアデルレイとセンチュリオンの優勝争い。ところが3コーナーを回るとディアデルレイが一方的に差を広げていき,直線に入るところでは決定的なリード。そのまま楽に逃げ切ったディアデルレイの優勝。センチュリオンが7馬身差で2着。外から追い上げたキングニミッツが6馬身差の3着。
 優勝したディアデルレイはJRA時代の2017年12月にオープンを勝って以来の勝利で南関東重賞初勝利。南関東に転入したのは昨年の秋。7戦して南関東重賞で2着はありましたが,これが転入後の初勝利でもありました。このレースは近況からセンチュリオンが負けることは予想しにくいメンバー構成。ディアデルレイは2着はあっても勝つのは難しいだろうと思っていましたので,意外な結果。楽なペースで逃げられたというのはあるでしょうが,それにしても差がつきすぎだと思いますので,初めての出走となった浦和コースに対する適性がきわめて高かったとみておくのが妥当なのではないかと思います。父はキングカメハメハ。母は2005年にフローラステークス,2007年に京都牝馬ステークスと愛知杯を勝ったディアデラノビア。ひとつ上の全姉は2014年にマーメイドステークスと府中牝馬ステークスと愛知杯を勝ったディアデラマドレ。ふたつ下の半弟は2015年の京都2歳ステークスと6日の京都大賞典を勝っている現役のドレッドノータス。Dia del Reyはスペイン語で王の日。
 騎乗した船橋の本田正重騎手は一昨年のハイセイコー記念以来となる南関東重賞5勝目。埼玉新聞栄冠賞は初勝利。管理している船橋の川島正一調教師は南関東重賞18勝目。第26回以来3年ぶりの埼玉新聞栄冠賞2勝目。

 同じXの混乱した観念idea inadaequataであるといっても,ある人間の精神mens humanaのうちにあるXの混乱した観念とそれとは別の人間の精神のうちにあるXの混乱した観念とでは,その様式が異なります。少なくとも異なり得ます。観念と意志作用volitioは一体化したものであり,そのことは十全な観念idea adaequataであろうと混乱した観念であろうと同様なのですから,Xの混乱した観念の様式が異なるのなら,それを肯定する意志作用の様式も異なるというべきだと僕は考えます。よってある人間の精神のうちにXの混乱した観念があり,それとは別の人間の精神のうちにやはりXの混乱した観念があるとき,ある人間と別の人間は,Xを肯定する意志作用を有している点では同じですが,異なる仕方でそれを肯定しているという場合があり得ることになります。つまり混乱した観念を肯定する意志作用というのは,諸個人の間で必ずしも一様ではないということになります。
 このゆえに,僕はもしもスピノザの哲学の中で主体subjectumという概念notioが何か意味を持つのだとすれば,それは各々の人間が混乱した観念を有する限りであると考えます。実際に事物を十全に認識するcognoscere限りでは,観念の形相formaもそれを肯定する意志作用も同様なのですから,だれがそれを認識しているのかということは問う必要がありません。単に無限知性intellectus infinitusのうちにそのものの観念があるとみなせばよいだけです。ですがある人間の精神のうちにXの混乱した観念がある場合には,その様式はその人間の精神のうちにだけあるXの混乱した観念であるという場合が,少なくとも論理的にはあるのです。
                                   
 このことは,主体という概念の規定としてはきわめて消極的だといえます。ただ,第二部定理一一系の具体的な意味に照らすと,各々の人間の精神の本性naturaが異なる分だけ,いい換えれば各々の人間の身体humanum corpusの現実的本性actualis essentiaが異なる分だけ,混乱した観念の様式が異なるという場合があるのですから,それを主体とみなすこと自体は許容できるのではないかと僕は思います。ある人間の身体の現実的本性と別の人間の身体の現実的本性の相違,つまりある人間の精神の現実的本性と別の人間の精神の現実的本性の相違を,ある主体と別の主体の相違の規準としているからです。
コメント
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