オーストラリアのコーフィールド競馬場で行われたコーフィールドステークスGⅠ芝2000m。
スズカデヴィアスは発馬後にすぐ控えて内に。徐々に位置取りが下がる形で最後尾からの追走となりました。先頭からは概ね7馬身から8馬身くらい。直線手前から惰性をつけるような感じで外へ出しましたが,2頭を差すにとどまり,勝ち馬からは4馬身弱の差で8着。激戦の3着争いまで1馬身4分の3ほど届かないという結果でした。
この馬は日本でGⅢ1勝,オープンを2勝というクラスの馬ですから,普通に考えてGⅠでは厳しいです。こういう馬がオセアニアの中距離のGⅠに出走してどの程度の結果を出せるのかは注目していたのですが,着差としても着順としても能力に準じたようなものであったと思われます。
主体subjectumというのをどのように規定するのが適切なのかということは別にしても,ある知性intellectusが混乱した観念idea inadaequataを有するとき,それがなぜ力potentiaであるといい得るのかということについては,事物を混乱して認識するcognoscereその知性の側からの説明も与えておきます。ただ前にもいったように,スピノザの哲学においてこれを説明するべき本筋は,第二部定理一一系の具体的意味に絡めるものです。僕がこれからするのは,このことをより分かりやすくするためのものだと理解してください。それから,この条件というのは,虚偽と誤謬を分けた場合の,虚偽falsitasの場合にのみ限られます。いい換えれば,虚偽が虚偽であるということを虚偽を認識するその知性が認識している場合に限られるということは前提としてください。この認識cognitioが欠乏している場合は,第二部定理四九備考でいわれているように,真verumなるものを真なるものとして肯定するのと同じ力があるというわけではありません。
第二部定理一七によれば,ある人間たとえばAの身体corpusが外部の物体corpusたとえばXによって刺激されるとき,Aの精神mensはXが現実的に存在すると観想します。これはAの精神のうちにあるXの表象像imagoであって,混乱した観念です。実際にこの観念は,Aの精神の本性naturaを構成するとともにXの観念を有する限りで神のうちにある観念ですから,先述の第二部定理一一系の具体的意味によって,Aの精神のうちにXの混乱した観念があるということは明白です。
ではなぜこのときにAはXが現実的に存在すると観想するcontemplariのでしょうか。それはこの定理Propositioにあるように,Xがその本性を含む仕方でAの身体を刺激するafficereからです。第二部定義二の意味から分かるように,一般に事物の本性essentiaというのはその事物の存在existentiaを鼎立するのであって,排除しません。よってXがその本性を含む仕方でAの身体を刺激すると,Aはその限りでXの本性を認識することになり,このXの本性がXの存在を鼎立するために,AはXが現実的に存在すると観想することになるのです。これについて詳しくは,この定理の証明Demonstratioを参照してください。
ここから分かるのは,Aの精神のうちにあるXの表象像は,Xの本性を含んでいる観念であるということです。
スズカデヴィアスは発馬後にすぐ控えて内に。徐々に位置取りが下がる形で最後尾からの追走となりました。先頭からは概ね7馬身から8馬身くらい。直線手前から惰性をつけるような感じで外へ出しましたが,2頭を差すにとどまり,勝ち馬からは4馬身弱の差で8着。激戦の3着争いまで1馬身4分の3ほど届かないという結果でした。
この馬は日本でGⅢ1勝,オープンを2勝というクラスの馬ですから,普通に考えてGⅠでは厳しいです。こういう馬がオセアニアの中距離のGⅠに出走してどの程度の結果を出せるのかは注目していたのですが,着差としても着順としても能力に準じたようなものであったと思われます。
主体subjectumというのをどのように規定するのが適切なのかということは別にしても,ある知性intellectusが混乱した観念idea inadaequataを有するとき,それがなぜ力potentiaであるといい得るのかということについては,事物を混乱して認識するcognoscereその知性の側からの説明も与えておきます。ただ前にもいったように,スピノザの哲学においてこれを説明するべき本筋は,第二部定理一一系の具体的意味に絡めるものです。僕がこれからするのは,このことをより分かりやすくするためのものだと理解してください。それから,この条件というのは,虚偽と誤謬を分けた場合の,虚偽falsitasの場合にのみ限られます。いい換えれば,虚偽が虚偽であるということを虚偽を認識するその知性が認識している場合に限られるということは前提としてください。この認識cognitioが欠乏している場合は,第二部定理四九備考でいわれているように,真verumなるものを真なるものとして肯定するのと同じ力があるというわけではありません。
第二部定理一七によれば,ある人間たとえばAの身体corpusが外部の物体corpusたとえばXによって刺激されるとき,Aの精神mensはXが現実的に存在すると観想します。これはAの精神のうちにあるXの表象像imagoであって,混乱した観念です。実際にこの観念は,Aの精神の本性naturaを構成するとともにXの観念を有する限りで神のうちにある観念ですから,先述の第二部定理一一系の具体的意味によって,Aの精神のうちにXの混乱した観念があるということは明白です。
ではなぜこのときにAはXが現実的に存在すると観想するcontemplariのでしょうか。それはこの定理Propositioにあるように,Xがその本性を含む仕方でAの身体を刺激するafficereからです。第二部定義二の意味から分かるように,一般に事物の本性essentiaというのはその事物の存在existentiaを鼎立するのであって,排除しません。よってXがその本性を含む仕方でAの身体を刺激すると,Aはその限りでXの本性を認識することになり,このXの本性がXの存在を鼎立するために,AはXが現実的に存在すると観想することになるのです。これについて詳しくは,この定理の証明Demonstratioを参照してください。
ここから分かるのは,Aの精神のうちにあるXの表象像は,Xの本性を含んでいる観念であるということです。