日本時間の昨晩,フランスのパリロンシャン競馬場で行われた凱旋門賞GⅠ芝2400m。

フィエールマンは最初は内の2番手,途中からは単独の3番手を追走。ブラストワンピースは5番手の外から。発馬のタイミングが合わずに1馬身の不利があったキセキは7番手の内を追走。フィエールマンは最後の直線に入る前に騎手の手が動き出して後退。勝ち馬からおよそ48馬身差の最下位で入線。ブラストワンピースはフィエールマンが後退し始めたあたりから外を回って追い上げようとしましたが前には追いつけず,勝ち馬からおよそ33馬身差のブービー。キセキは馬群の中から追い上げようとしましたがこちらも前までは追いつけず,勝ち馬からおよそ21馬身半差の7着でした。
キセキは日本馬3頭の中では最も能力は上と僕はみていましたが,発馬が致命的で,自身が得意とするパターンに持ち込むことができませんでした。結果からみると上位4頭の能力が抜けていたようで,そこの争いに加わることはできなかったでしょうが,もう少し上位か少なくとも小さな差で終えることができたでしょう。ブラストワンピースは普通にレースをしてのもので,着差はともかく力負けだと思います。フィエールマンは負けすぎですが,この馬は日本でも間隔をあけてレースを使っているように,体質的に弱い部分があります。こういうタイプの馬の海外遠征は厳しかったということではないでしょうか。ただし,体質もまた競走馬の能力のひとつであることは間違いありません。
第二部定理一一系の具体的意味から,ある人間の精神mens humanaの本性naturaを構成する限りで神DeusのうちにXの十全な観念idea adaequataがあるといわれるとき,この人間はXを十全に認識します。これはどの人間にあっても同一です。したがって現実的に存在するどの人間の精神のうちにXの十全な観念があるとしても,その観念の形相formaは同一です。そしてそれは,神の無限知性intellectus infinitusのうちにあるXの観念の形相と同一であることになります。人間の精神が神の無限知性の一部であるということは,このような意味を有していなければならないからです。
第二部定理四九系にあるように,知性と意志voluntasは同一です。これは,個々の観念と個々の意志作用volitioは同一であるという意味でなければなりません。したがって,もしも観念の形相が同一である場合には,意志作用もまた同一でなければなりません。すでに示したように,Xの十全な観念が人間の精神のうちにある場合,その形相はどの人間の精神のうちにあろうと同一なのですから,それを肯定する意志作用もまた同一です。つまりどの人間であっても,Xの十全な観念を肯定する意志作用は,同一の意志作用です。いい換えれば,どの人間も同じようにXを肯定するということになります。そしてこのXの十全な観念は,神の無限知性のうちにある観念と同じ形相なのですから,Xを肯定する意志作用もまたそれと同一であるといわなければなりません。したがって僕たちはXを十全に認識するcognoscereなら,つまりXの十全な観念を有するなら,神と同じようにそれを認識しているのだし,また神と同じようにそれを肯定しているということになります。この場合に,Xを認識する主体subjectumが,またXを肯定する主体が何であるのかということを問う必要はないことは明らかでしょう。主体が何であっても思惟作用は同一であるからです。これがスピノザの哲学における主体の排除の理由のひとつになります。
もっとも,十全adaequatumなるものを十全なるものとして肯定する意志作用については,それを力potentiaであるとみなすことに異論は出ないでしょうから,実際には十全な観念の場合には主体についてはあまり考える必要がないかもしれません。問題は混乱した観念idea inadaequataを有する場合にあります。

フィエールマンは最初は内の2番手,途中からは単独の3番手を追走。ブラストワンピースは5番手の外から。発馬のタイミングが合わずに1馬身の不利があったキセキは7番手の内を追走。フィエールマンは最後の直線に入る前に騎手の手が動き出して後退。勝ち馬からおよそ48馬身差の最下位で入線。ブラストワンピースはフィエールマンが後退し始めたあたりから外を回って追い上げようとしましたが前には追いつけず,勝ち馬からおよそ33馬身差のブービー。キセキは馬群の中から追い上げようとしましたがこちらも前までは追いつけず,勝ち馬からおよそ21馬身半差の7着でした。
キセキは日本馬3頭の中では最も能力は上と僕はみていましたが,発馬が致命的で,自身が得意とするパターンに持ち込むことができませんでした。結果からみると上位4頭の能力が抜けていたようで,そこの争いに加わることはできなかったでしょうが,もう少し上位か少なくとも小さな差で終えることができたでしょう。ブラストワンピースは普通にレースをしてのもので,着差はともかく力負けだと思います。フィエールマンは負けすぎですが,この馬は日本でも間隔をあけてレースを使っているように,体質的に弱い部分があります。こういうタイプの馬の海外遠征は厳しかったということではないでしょうか。ただし,体質もまた競走馬の能力のひとつであることは間違いありません。
第二部定理一一系の具体的意味から,ある人間の精神mens humanaの本性naturaを構成する限りで神DeusのうちにXの十全な観念idea adaequataがあるといわれるとき,この人間はXを十全に認識します。これはどの人間にあっても同一です。したがって現実的に存在するどの人間の精神のうちにXの十全な観念があるとしても,その観念の形相formaは同一です。そしてそれは,神の無限知性intellectus infinitusのうちにあるXの観念の形相と同一であることになります。人間の精神が神の無限知性の一部であるということは,このような意味を有していなければならないからです。
第二部定理四九系にあるように,知性と意志voluntasは同一です。これは,個々の観念と個々の意志作用volitioは同一であるという意味でなければなりません。したがって,もしも観念の形相が同一である場合には,意志作用もまた同一でなければなりません。すでに示したように,Xの十全な観念が人間の精神のうちにある場合,その形相はどの人間の精神のうちにあろうと同一なのですから,それを肯定する意志作用もまた同一です。つまりどの人間であっても,Xの十全な観念を肯定する意志作用は,同一の意志作用です。いい換えれば,どの人間も同じようにXを肯定するということになります。そしてこのXの十全な観念は,神の無限知性のうちにある観念と同じ形相なのですから,Xを肯定する意志作用もまたそれと同一であるといわなければなりません。したがって僕たちはXを十全に認識するcognoscereなら,つまりXの十全な観念を有するなら,神と同じようにそれを認識しているのだし,また神と同じようにそれを肯定しているということになります。この場合に,Xを認識する主体subjectumが,またXを肯定する主体が何であるのかということを問う必要はないことは明らかでしょう。主体が何であっても思惟作用は同一であるからです。これがスピノザの哲学における主体の排除の理由のひとつになります。
もっとも,十全adaequatumなるものを十全なるものとして肯定する意志作用については,それを力potentiaであるとみなすことに異論は出ないでしょうから,実際には十全な観念の場合には主体についてはあまり考える必要がないかもしれません。問題は混乱した観念idea inadaequataを有する場合にあります。