9日に指された第50回新人王戦決勝三番勝負第一局。対戦成績は増田康宏六段が3勝,高野智史四段が1勝。
振駒で高野四段の先手となり相掛かり。先手の浮き飛車に後手の増田六段の引き飛車。先手が早繰り銀の速攻を掛ける将棋。
先手が4六の銀を上がったのに対して後手が3二の金を上がって受けた局面。ここで☗4六飛と回って戦力を足しましたが,この手があまりよくなかったのだと思います。
後手は☖6五桂と跳ね先手の☗7七桂に☖5七桂成☗同玉と捨てて☖2四角の間接王手飛車。このまま☖4五歩とされては終了なので先手は☗4八玉と逃げましたが☖4六角☗同銀の飛車角交換に進みました。
第2図は先手の桂得なのですが,後手が飛車を手持ちにしたのが大きく後手の方がやれるようです。なので第1図で4六に飛車が回るのはまずく,先手はたとえばここでか銀を5五に上がる前に☗7七桂のような手を指しておかなければいけなかったということになりそうです。
増田六段が先勝。第二局は21日です。
スピノザは太陽を例に説明しているのですが,数値に誤りが含まれているので,僕はここでは月を例材に説明します。
僕たちは月を表象するimaginariとき,これは夜に月を見たときを想定してほしいのですが,そのときには月が現にあるよりずっと近くにあるように知覚します。第二部定理三五がいっているのは,このときに実際に月が知覚しているような近い位置にあると思うなら,それが虚偽と誤謬を分けた場合の誤謬errorであり,実際には月は見た目よりはずっと遠くにあるということを知っているなら,それは虚偽falsitasではあっても誤謬ではないということです。この場合には,実際に月が自分から,あるいはこれは地球からといい換えてもほとんど違いはありませんが,どれほど離れた位置にあるのかを正確に知っている必要はありません。ただ見た目よりはずっと遠くにあるということさえ知っているなら十分です。
もし僕たちが,地球と月との間にある距離を正確に知っていると仮定するなら,このとき僕たちはそのことについて十全な観念idea adaequataを有していることになります。これはそれ自体で明らかでしょう。このときある人間がその十全な観念を有していると仮定して月を見れば,月がその当の距離ほど離れているかのように知覚するpercipereのかといえばそうではありません。そのことを知っていようと知っていまいと,月は同じように表象される,実際にあるのよりもずっと近くにあるかのように表象されるのです。第四部定理一がいっていること,すなわち真verumであるものが真であるということが現在するということを理由としては誤った観念idea falsaが有する積極的なものは除去されないというのはこのような意味です。つまりこの定理Propositioの意味は,この場合でいえば月の,正確にいうなら地球と月との間の距離の,真の観念idea veraすなわち十全な観念がある知性intellectusのうちに現実的に存在するとしても,月の表象像imagoは除去されない,いい換えればその混乱した観念idea inadaequataは除去されないということです。つまり一般的にいうなら,ある知性のうちにXの十全な観念が存在するということは,その同じ知性のうちのXの混乱した観念が除去される原因causaにはならないし,その発生を妨げる原因にもならないということです。
振駒で高野四段の先手となり相掛かり。先手の浮き飛車に後手の増田六段の引き飛車。先手が早繰り銀の速攻を掛ける将棋。
先手が4六の銀を上がったのに対して後手が3二の金を上がって受けた局面。ここで☗4六飛と回って戦力を足しましたが,この手があまりよくなかったのだと思います。
後手は☖6五桂と跳ね先手の☗7七桂に☖5七桂成☗同玉と捨てて☖2四角の間接王手飛車。このまま☖4五歩とされては終了なので先手は☗4八玉と逃げましたが☖4六角☗同銀の飛車角交換に進みました。
第2図は先手の桂得なのですが,後手が飛車を手持ちにしたのが大きく後手の方がやれるようです。なので第1図で4六に飛車が回るのはまずく,先手はたとえばここでか銀を5五に上がる前に☗7七桂のような手を指しておかなければいけなかったということになりそうです。
増田六段が先勝。第二局は21日です。
スピノザは太陽を例に説明しているのですが,数値に誤りが含まれているので,僕はここでは月を例材に説明します。
僕たちは月を表象するimaginariとき,これは夜に月を見たときを想定してほしいのですが,そのときには月が現にあるよりずっと近くにあるように知覚します。第二部定理三五がいっているのは,このときに実際に月が知覚しているような近い位置にあると思うなら,それが虚偽と誤謬を分けた場合の誤謬errorであり,実際には月は見た目よりはずっと遠くにあるということを知っているなら,それは虚偽falsitasではあっても誤謬ではないということです。この場合には,実際に月が自分から,あるいはこれは地球からといい換えてもほとんど違いはありませんが,どれほど離れた位置にあるのかを正確に知っている必要はありません。ただ見た目よりはずっと遠くにあるということさえ知っているなら十分です。
もし僕たちが,地球と月との間にある距離を正確に知っていると仮定するなら,このとき僕たちはそのことについて十全な観念idea adaequataを有していることになります。これはそれ自体で明らかでしょう。このときある人間がその十全な観念を有していると仮定して月を見れば,月がその当の距離ほど離れているかのように知覚するpercipereのかといえばそうではありません。そのことを知っていようと知っていまいと,月は同じように表象される,実際にあるのよりもずっと近くにあるかのように表象されるのです。第四部定理一がいっていること,すなわち真verumであるものが真であるということが現在するということを理由としては誤った観念idea falsaが有する積極的なものは除去されないというのはこのような意味です。つまりこの定理Propositioの意味は,この場合でいえば月の,正確にいうなら地球と月との間の距離の,真の観念idea veraすなわち十全な観念がある知性intellectusのうちに現実的に存在するとしても,月の表象像imagoは除去されない,いい換えればその混乱した観念idea inadaequataは除去されないということです。つまり一般的にいうなら,ある知性のうちにXの十全な観念が存在するということは,その同じ知性のうちのXの混乱した観念が除去される原因causaにはならないし,その発生を妨げる原因にもならないということです。