5日に霧島ファクトリーガーデンで指された第41期女流王将戦三番勝負第一局。対戦成績は里見香奈女流王将が4勝,西山朋佳女王が4勝。
霧島酒造の社長による振駒はと金が3枚出て西山女王の先手。☗7六歩☖3四歩☗6八飛☖2四歩☗2八銀☖2五歩という珍しい出だしから先手の四間飛車矢倉,後手の三間飛車美濃という相振飛車に。後手の作戦勝ちだったと思いますが,主導権を得た分の得で,先手は愚形にはなったものの,ずっといい勝負だったように思います。

先手が7筋の歩を突き捨てた局面。ここは何とか攻めを繋がなければなりませんが,☗7七桂と取られそうな駒を使いにいったのは好判断でした。
後手は☖5五金と角の方を取って☗同飛に☖5四歩と打ちました。先手は☗6五桂とさらに活用。☖6四馬に☗4五飛と逃げました。もし同じ手順になるならここは☗2五飛の方が得でした。
後手は☖5五桂。先手は☗4六銀と逃げ☖5七龍のときに☗4一飛成としました。同じ手順ならここは☗2一飛成があり得たわけでそれなら実戦の☖5一金引が龍取りにはなりませんでした。
ここで☗7三香と打ったのは攻め続けるための唯一の手段。☖4一金に☗6二銀と打ちました。

ここで☖6五馬と桂馬を取って☗6一銀成に☖7三王と上に逃げ出そうとしましたが,☗6五銀と馬を取り返されて後手の敗勢になりました。第2図では☖7三桂と香車を取り,☗6一銀不成に☖6二飛と打って頑健に抵抗すればまだ難解だったようです。
西山女王が先勝。第二局は23日です。
僕が規定した主体subjectumの概念notioについては,なお注意するべきことがあります。
僕はたとえばAという人間の精神mens humanaのうちにあるXの混乱した観念idea inadaequataと,Bという人間の精神のうちにあるXの混乱した観念は,同じようにXの混乱した観念である,Xに関する虚偽falsitasであったとしても,Aの精神のうちのXの混乱した観念とBの精神のうちにあるXの混乱した観念の様式は異なり得るので,もしもスピノザの哲学の中に主体という概念を持ち込もうとするのであれば,それは各々の人間が混乱した観念を有する限りで,いい換えると,各々の人間が事物を混乱して認識するcognoscere限りにおいてであるといいました。そしてその様式の差異は,各々の人間の精神の本性naturaの差異,あるいは同じことですが各々の人間の身体humanum corpusの現実的本性actualis essentiaの差異に還元できる場合があるし,完全に還元することはできなくとも,その差異が混乱した観念の様式の差異にまったく影響を与えないということはあり得ないのです。
ただ,注意しておかなければならないのは,たとえばAという特定の人間の精神のうちにXの混乱した観念があるとして,その混乱した観念の様式もまた常に一定であるとは限らないということです。第二部定理一一系の具体的意味に照合させると,たとえばAの精神の本性を構成するとともに何かほかのものの観念を有する限りでXの観念が神のうちにある場合は,AはXを混乱して認識します。つまりXの混乱した観念がAのうちにあります。このとき,もしもAの精神のうちにあるXの混乱した観念の様式が常に一定であると主張するなら,具体的意味の中でほかのものといわれているものもまた常に一定でなければなりません。しかしこのことはこの意味からは帰結させられませんし,この意味の前提とすることもできません。すなわち,Aの精神の本性を構成するとともにBの観念を有する限りで神のうちにXの観念があるという場合もあれば,Aの精神の本性を構成するとともにCの観念を有する限りで神のうちにXの観念があるという場合もあります。少なくとも論理的にはあり得ます。どちらの場合もAはXを混乱して認識しますが,そのふたつのXの混乱した観念の様式には差異があります。
霧島酒造の社長による振駒はと金が3枚出て西山女王の先手。☗7六歩☖3四歩☗6八飛☖2四歩☗2八銀☖2五歩という珍しい出だしから先手の四間飛車矢倉,後手の三間飛車美濃という相振飛車に。後手の作戦勝ちだったと思いますが,主導権を得た分の得で,先手は愚形にはなったものの,ずっといい勝負だったように思います。

先手が7筋の歩を突き捨てた局面。ここは何とか攻めを繋がなければなりませんが,☗7七桂と取られそうな駒を使いにいったのは好判断でした。
後手は☖5五金と角の方を取って☗同飛に☖5四歩と打ちました。先手は☗6五桂とさらに活用。☖6四馬に☗4五飛と逃げました。もし同じ手順になるならここは☗2五飛の方が得でした。
後手は☖5五桂。先手は☗4六銀と逃げ☖5七龍のときに☗4一飛成としました。同じ手順ならここは☗2一飛成があり得たわけでそれなら実戦の☖5一金引が龍取りにはなりませんでした。
ここで☗7三香と打ったのは攻め続けるための唯一の手段。☖4一金に☗6二銀と打ちました。

ここで☖6五馬と桂馬を取って☗6一銀成に☖7三王と上に逃げ出そうとしましたが,☗6五銀と馬を取り返されて後手の敗勢になりました。第2図では☖7三桂と香車を取り,☗6一銀不成に☖6二飛と打って頑健に抵抗すればまだ難解だったようです。
西山女王が先勝。第二局は23日です。
僕が規定した主体subjectumの概念notioについては,なお注意するべきことがあります。
僕はたとえばAという人間の精神mens humanaのうちにあるXの混乱した観念idea inadaequataと,Bという人間の精神のうちにあるXの混乱した観念は,同じようにXの混乱した観念である,Xに関する虚偽falsitasであったとしても,Aの精神のうちのXの混乱した観念とBの精神のうちにあるXの混乱した観念の様式は異なり得るので,もしもスピノザの哲学の中に主体という概念を持ち込もうとするのであれば,それは各々の人間が混乱した観念を有する限りで,いい換えると,各々の人間が事物を混乱して認識するcognoscere限りにおいてであるといいました。そしてその様式の差異は,各々の人間の精神の本性naturaの差異,あるいは同じことですが各々の人間の身体humanum corpusの現実的本性actualis essentiaの差異に還元できる場合があるし,完全に還元することはできなくとも,その差異が混乱した観念の様式の差異にまったく影響を与えないということはあり得ないのです。
ただ,注意しておかなければならないのは,たとえばAという特定の人間の精神のうちにXの混乱した観念があるとして,その混乱した観念の様式もまた常に一定であるとは限らないということです。第二部定理一一系の具体的意味に照合させると,たとえばAの精神の本性を構成するとともに何かほかのものの観念を有する限りでXの観念が神のうちにある場合は,AはXを混乱して認識します。つまりXの混乱した観念がAのうちにあります。このとき,もしもAの精神のうちにあるXの混乱した観念の様式が常に一定であると主張するなら,具体的意味の中でほかのものといわれているものもまた常に一定でなければなりません。しかしこのことはこの意味からは帰結させられませんし,この意味の前提とすることもできません。すなわち,Aの精神の本性を構成するとともにBの観念を有する限りで神のうちにXの観念があるという場合もあれば,Aの精神の本性を構成するとともにCの観念を有する限りで神のうちにXの観念があるという場合もあります。少なくとも論理的にはあり得ます。どちらの場合もAはXを混乱して認識しますが,そのふたつのXの混乱した観念の様式には差異があります。