9月26日の午後に鶴林寺で指された第11期加古川青流戦決勝三番勝負第三局。
振駒で先手となった服部慎一郎四段の矢倉。後手の井田明宏四段はまた雁木。この将棋は組み合う形になりました。後手の玉と飛車が近い位置にあるのが祟る展開になり,ずっと先手が有利に展開していたようです。

後手はここで☖3五歩を中心に読んだのですが,成算が持てませんでした。なので勝負手を繰り出しました。それが☖8六角。☗同金に☖6七金の両取りが狙いです。
ここですぐに飛車を逃げずに☗2六角と上がったのが先手の勝着になりました。☖5八金☗6二角成の攻め合いでは後手が勝てませんので☖5二金。そこで☗2八飛と逃げておきます。後手は☖6六金と取るほかありません。

第2図は後手が先手玉を寄せるには時間が掛かります。ここから攻勢に出た先手が寄せを決めました。
2勝1敗で服部四段が優勝。棋士デビューから1年10ヶ月で棋戦初優勝を達成しました。
情報共有型のゲームである将棋との比較によって,情報非共有型のゲームである麻雀の場合には,第三種の認識cognitio tertii generisが有効にならないケースがある,あるいは少なくとも,将棋よりも第三種の認識が働きにくいケースが生じ得るという場合があることは,よく理解できるのではないかと思います。近藤が,自身の失点を防ぐとき,他面からいえば他のプレイヤーの得点の獲得を阻止するときには,第三種の認識は有効ではないというとき,近藤自身は意識していないかもしれませんが,麻雀というゲームが有する性質自体が影響していると僕は考えています。
近藤は基本的に,直感で麻雀を打つことが有効になるために重要なのは,経験の量であるといういい方をします。経験というのはスピノザの哲学でいえば第一種の認識cognitio primi generisに該当しますので,第五部定理二八によって,それが第三種の認識でものを認識するcognoscereために有効な認識ではありません。これでみれば近藤は,スピノザの哲学と異なったことをいっているように思われますが,必ずしもそのように解する必要はないと僕は考えています。というのも,ここで近藤がいっている経験は,文字通りにある事柄を経験するという意味での経験というよりは,ある事柄について考えた経験,すなわち第二種の認識cognitio secundi generisでそれを考えあるいは理解した経験というように受け取ることができるからです。それでみれば,第二種の認識で考えた経験が多くなればなるほど,第二種の認識の蓄積は多くなるのですから,むしろ第五部定理二八に則したことをいっているということもできるからです。しかしなぜ近藤の記述をそのように解することができるのかということは,後で説明することとします。
近藤によれば,直感の有効性は経験値に依存します。したがって,自分が得点を獲得することを目指す場合でも,その経験が少ないなら,直感はあまり有効でないということになります。たとえば4人で戦う麻雀であれば,相手が3人いることになりますので,フラットに打って単に高い順位を目指せばよい場合だけではなく,着順などで何らかの条件を満たすということの方を求められるケースが生じます。この場合は直感に頼れないと近藤はいいます。
振駒で先手となった服部慎一郎四段の矢倉。後手の井田明宏四段はまた雁木。この将棋は組み合う形になりました。後手の玉と飛車が近い位置にあるのが祟る展開になり,ずっと先手が有利に展開していたようです。

後手はここで☖3五歩を中心に読んだのですが,成算が持てませんでした。なので勝負手を繰り出しました。それが☖8六角。☗同金に☖6七金の両取りが狙いです。
ここですぐに飛車を逃げずに☗2六角と上がったのが先手の勝着になりました。☖5八金☗6二角成の攻め合いでは後手が勝てませんので☖5二金。そこで☗2八飛と逃げておきます。後手は☖6六金と取るほかありません。

第2図は後手が先手玉を寄せるには時間が掛かります。ここから攻勢に出た先手が寄せを決めました。
2勝1敗で服部四段が優勝。棋士デビューから1年10ヶ月で棋戦初優勝を達成しました。
情報共有型のゲームである将棋との比較によって,情報非共有型のゲームである麻雀の場合には,第三種の認識cognitio tertii generisが有効にならないケースがある,あるいは少なくとも,将棋よりも第三種の認識が働きにくいケースが生じ得るという場合があることは,よく理解できるのではないかと思います。近藤が,自身の失点を防ぐとき,他面からいえば他のプレイヤーの得点の獲得を阻止するときには,第三種の認識は有効ではないというとき,近藤自身は意識していないかもしれませんが,麻雀というゲームが有する性質自体が影響していると僕は考えています。
近藤は基本的に,直感で麻雀を打つことが有効になるために重要なのは,経験の量であるといういい方をします。経験というのはスピノザの哲学でいえば第一種の認識cognitio primi generisに該当しますので,第五部定理二八によって,それが第三種の認識でものを認識するcognoscereために有効な認識ではありません。これでみれば近藤は,スピノザの哲学と異なったことをいっているように思われますが,必ずしもそのように解する必要はないと僕は考えています。というのも,ここで近藤がいっている経験は,文字通りにある事柄を経験するという意味での経験というよりは,ある事柄について考えた経験,すなわち第二種の認識cognitio secundi generisでそれを考えあるいは理解した経験というように受け取ることができるからです。それでみれば,第二種の認識で考えた経験が多くなればなるほど,第二種の認識の蓄積は多くなるのですから,むしろ第五部定理二八に則したことをいっているということもできるからです。しかしなぜ近藤の記述をそのように解することができるのかということは,後で説明することとします。
近藤によれば,直感の有効性は経験値に依存します。したがって,自分が得点を獲得することを目指す場合でも,その経験が少ないなら,直感はあまり有効でないということになります。たとえば4人で戦う麻雀であれば,相手が3人いることになりますので,フラットに打って単に高い順位を目指せばよい場合だけではなく,着順などで何らかの条件を満たすということの方を求められるケースが生じます。この場合は直感に頼れないと近藤はいいます。