スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

湘南ダービー&全面否定

2022-04-11 19:08:45 | 競輪
 昨日の平塚記念の決勝。並びは平原‐佐藤の東日本,郡司‐和田‐大塚の神奈川,古性‐神田の大阪,山田‐井上の九州。
 やや牽制があった後,平原と佐藤が誘導を追いました。するとその外から郡司が上昇。バックで誘導の後ろに入って前受けに。4番手に平原,6番手に山田,8番手に古性という周回に。残り3周のバックを出ると古性が上昇。ホームで誘導との車間を少しずつ開けていた郡司を叩いて前に。このラインに続いていた山田がホーム後のコーナーで古性を叩いて前に出ると,今度は平原が上昇。山田を叩いてバックで前に出ました。郡司はこのラインを追いましたが,平原を叩きにはいかず,平原が先頭で打鐘。山田は引かなかったので3番手を内の山田と外の郡司で取り合う隊列に。ホームに入ると郡司が発進。平原を叩きにいくと激しい競り合いに。内の平原が突っ張ることに成功。郡司は脱落。郡司マークの和田が自力で発進すると,それに乗るような形となったのが古性。和田の捲りは平原が牽制で止めました。佐藤はそのまま直線に向かうと踏み込み,逃げる平原を差して優勝。和田がいききれなかったので,進路を変更し平原と佐藤の間から伸びた古性が1車身差の2着。逃げ粘った平原が8分の1車輪差で3着。
 優勝した福島の佐藤慎太郎選手は2月の静岡記念以来の優勝で記念競輪10勝目。平塚記念は初優勝。僕はこのレースは平原の先行になるのではないかとみていたので,その場合は佐藤に優勝のチャンスがありそうだと思っていました。大きかったのは叩きにきた郡司を平原が突っ張ってくれたことで,このために最も強力な選手の捲りを止めにいかないで済むようになりました。それでも自力に転じた和田の捲りは止めていますから,十分に使命を果たしての優勝といっていいでしょう。平原もさすがに郡司と先行争いをしては脚力の消耗が激しく,佐藤に差されたのはもちろん,2着に残れなかったことも仕方がなかったと思います。

 ニーチェFriedrich Wilhelm Nietzscheがスピノザを自身の先達とみるとき,強調されているのは,スピノザが良心の呵責conscientiae morsusを歓喜gaudiumの反対感情と措定している点です。もしスピノザが,第三部諸感情の定義一七で定義される感情affectusのことを良心の呵責といったことについて,何らかの意図をもっていたとすれば,それが歓喜の反対感情であるという点は,その意図の全体ではないかもしれませんが,意図の一部に含まれているか,そうでなくともスピノザの意図から必然的にnecessario帰結しなければならない事柄であったということは,僕には疑い得ないように思えます。そこで僕はこの観点から良心の呵責を考えることにします。なので,スピノザが良心の呵責を『エチカ』においてはこのように定義したことについて,大した意味がない場合はもちろん,ある意図をもっていたのだとしても,その意図が何であるかを深く追求しなくてもこれからの考察の大きな欠点とはならないでしょう。ですからそもそも意図があったのかなかったのかということについても,探求しなくて構わないことになります。
                                   
 ニーチェは,疚しさと無垢とを比較して,無垢の方を称揚しているのでした。これはニーチェにとっては全面的な意味をもっているのでなければなりません。なぜなら,疚しさの起源は原罪であるとニーチェは指摘しているのですから,もしも無垢と疚しさの比較が全面的なものでなく,部分的なものであるのだとしたら,原罪を否定するのも部分的でなければならないからです。いい換えればニーチェは原罪についても,部分的には否定しない,つまり部分的には称揚することができるというのでなければなりません。しかしニーチェがそのように主張するとは考えられません。よってニーチェは原罪を全面的に否定すると理解しなければならないのであって,そのように理解する以上は,原罪を起源として発生する疚しさ,これが良心の呵責のことですが,その感情についても全面的に否定すると解する必要があります。
 ニーチェがスピノザを自身の先達としてみるとき,おそらくこのような考え方がニーチェの中にあったと僕は思います。しかしスピノザは良心の呵責を全面的には否定しないだろうと僕は思います。
コメント
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