『彼岸過迄』は,いくつかの短編をまとめてひとつの作品とした実験作であり意欲作です。漱石がそのような小説を新聞小説として書いたのには,ある特別の事情が絡んでいました。
漱石が朝日新聞に入社したのは1907年4月です。5月に大学教授と新聞屋には職業としての貴賤はないという主旨の入社の辞を寄せ,小説としては『虞美人草』を6月から掲載し始めました。1908年1月からの『坑夫』が2作目。9月からの『三四郎』が3作目で1909年6月から『それから』。さらに1910年3月から『門』の連載が始まりました。『彼岸過迄』はその次の長編連載小説ですが,開始になったのは1912年1月で,『門』との期間はかなり長くなっています。
この間に漱石は胃潰瘍を発症。1910年8月から修善寺に療養に行きましたが,そこで大量の吐血をして生死の境をさまよいました。
ここから分かるように,『彼岸過迄』というのは,漱石が大病から生還をしての最初の小説であったのです。しかもそういう事情がありましたから,その前の連載小説からの期間が長く,読者を待たせたという気持ちが漱石の中にもあったのです。漱石は新聞小説を掲載し始める前に予告をしていますが,『彼岸過迄』の事前予告の中ではそうした事情について触れられていて,久しぶりであるからなるべく面白いものを書かなければすまないという気がいくらかあるといっています。
さらに漱石は,自分の病気に対して寛容的に対処してくれた朝日新聞の社員たちや,自分が書いたものを読んでくれる読者の好意に報わなければならないという気持ちもあるといっています。もちろんこうしたことは,社交辞令といった一面がないとはいえないでしょう。ただ,こういった気持ちは表向きのものだけであって,漱石にそういう気持ちがまったくなかったということはあり得ないと思います。ですから漱石がこのときに『彼岸過迄』という実験的ともいえる意欲作の掲載に踏み切った理由として,『彼岸過迄』までの事情が影響したということは,可能性として否定できない事実だといえるでしょう。
良心の呵責conscientiae morsusは悲しみtristitiaの一種であるがゆえに,人間のコナトゥスconatusに反する感情affectusであると同時に,非道徳的な感情でもあります。しかしそうした感情であっても,推奨される余地はあります。良心の呵責がどう解されるかは,良心の呵責が憐憫commiseratioや後悔poenitentiaや自己嫌悪humilitas,また不安metusといった一連の感情に属するのか,それとも憎しみodiumを代表とするような一連の感情に属するのかということを考える必要があります。前もっていっておいたように,僕はスピノザが良心の呵責を全面的に否定することはない,いい換えれば推奨するであろう,少なくとも推奨する場合があるだろうという見解opinioを有しています。つまり良心の呵責は,前述の分類でいえば前者に属するであろうという見解をもっています。ここからは僕がその見解を有している根拠を説明していきます。
スピノザが第三部諸感情の定義一七の感情について,なぜそれを良心の呵責といったのかは不明です。というか,考察の対象としませんでした。ただスピノザは『短論文Korte Verhandeling van God / de Mensch en deszelfs Welstand』を記していた時点では,良心の呵責を後悔の類似感情であると考えていたのです。そしてスピノザは後悔については『エチカ』でも推奨しています。厳密にいえば第四部定理五四備考は,害悪より利益を齎すといっているわけで,推奨しているというのはいい過ぎかもしれませんが,第四部定理四系から,現実的に存在する人間は働きを受けるpatiということが不可避なので,働きを受けるのならこの働きを受けるのがよいといっているに等しいといえます。
第三部諸感情の定義一七の感情は,後悔,第三部諸感情の定義二七の感情の類似感情であるとはいえません。つまり『エチカ』では良心の呵責が後悔の類似感情であるとはいえません。しかしこの感情は希望spesおよび不安metusからの派生感情です。つまり,前もって希望と不安があるのでなければ,現実的に存在する人間は良心の呵責を感じることはない,というように『エチカ』では定義されているのです。そして不安と希望は『エチカ』では推奨されています。このことからも,良心の呵責は推奨される,少なくとも推奨され得ると解することができるのではないでしょうか。
定義Definitioから離れた場合も考えます。
漱石が朝日新聞に入社したのは1907年4月です。5月に大学教授と新聞屋には職業としての貴賤はないという主旨の入社の辞を寄せ,小説としては『虞美人草』を6月から掲載し始めました。1908年1月からの『坑夫』が2作目。9月からの『三四郎』が3作目で1909年6月から『それから』。さらに1910年3月から『門』の連載が始まりました。『彼岸過迄』はその次の長編連載小説ですが,開始になったのは1912年1月で,『門』との期間はかなり長くなっています。
この間に漱石は胃潰瘍を発症。1910年8月から修善寺に療養に行きましたが,そこで大量の吐血をして生死の境をさまよいました。
ここから分かるように,『彼岸過迄』というのは,漱石が大病から生還をしての最初の小説であったのです。しかもそういう事情がありましたから,その前の連載小説からの期間が長く,読者を待たせたという気持ちが漱石の中にもあったのです。漱石は新聞小説を掲載し始める前に予告をしていますが,『彼岸過迄』の事前予告の中ではそうした事情について触れられていて,久しぶりであるからなるべく面白いものを書かなければすまないという気がいくらかあるといっています。
さらに漱石は,自分の病気に対して寛容的に対処してくれた朝日新聞の社員たちや,自分が書いたものを読んでくれる読者の好意に報わなければならないという気持ちもあるといっています。もちろんこうしたことは,社交辞令といった一面がないとはいえないでしょう。ただ,こういった気持ちは表向きのものだけであって,漱石にそういう気持ちがまったくなかったということはあり得ないと思います。ですから漱石がこのときに『彼岸過迄』という実験的ともいえる意欲作の掲載に踏み切った理由として,『彼岸過迄』までの事情が影響したということは,可能性として否定できない事実だといえるでしょう。
良心の呵責conscientiae morsusは悲しみtristitiaの一種であるがゆえに,人間のコナトゥスconatusに反する感情affectusであると同時に,非道徳的な感情でもあります。しかしそうした感情であっても,推奨される余地はあります。良心の呵責がどう解されるかは,良心の呵責が憐憫commiseratioや後悔poenitentiaや自己嫌悪humilitas,また不安metusといった一連の感情に属するのか,それとも憎しみodiumを代表とするような一連の感情に属するのかということを考える必要があります。前もっていっておいたように,僕はスピノザが良心の呵責を全面的に否定することはない,いい換えれば推奨するであろう,少なくとも推奨する場合があるだろうという見解opinioを有しています。つまり良心の呵責は,前述の分類でいえば前者に属するであろうという見解をもっています。ここからは僕がその見解を有している根拠を説明していきます。
スピノザが第三部諸感情の定義一七の感情について,なぜそれを良心の呵責といったのかは不明です。というか,考察の対象としませんでした。ただスピノザは『短論文Korte Verhandeling van God / de Mensch en deszelfs Welstand』を記していた時点では,良心の呵責を後悔の類似感情であると考えていたのです。そしてスピノザは後悔については『エチカ』でも推奨しています。厳密にいえば第四部定理五四備考は,害悪より利益を齎すといっているわけで,推奨しているというのはいい過ぎかもしれませんが,第四部定理四系から,現実的に存在する人間は働きを受けるpatiということが不可避なので,働きを受けるのならこの働きを受けるのがよいといっているに等しいといえます。
第三部諸感情の定義一七の感情は,後悔,第三部諸感情の定義二七の感情の類似感情であるとはいえません。つまり『エチカ』では良心の呵責が後悔の類似感情であるとはいえません。しかしこの感情は希望spesおよび不安metusからの派生感情です。つまり,前もって希望と不安があるのでなければ,現実的に存在する人間は良心の呵責を感じることはない,というように『エチカ』では定義されているのです。そして不安と希望は『エチカ』では推奨されています。このことからも,良心の呵責は推奨される,少なくとも推奨され得ると解することができるのではないでしょうか。
定義Definitioから離れた場合も考えます。