昨晩の第26回マリーンカップ。
サルサディオーネが逃げて1馬身差でショウナンナデシコががっちりとマーク。3馬身差でレディバグとメモリーコウ。2馬身差でレーヌブランシュ。2馬身差でクールキャット。大きく離れてハピネスマインド。2馬身差でアイカプチーノ。大きく離れてグレートコマンダーとナラ。また大きく離れてネイバーアイランド,ハナウタマジリ,アウティミアーという,とても縦に長い隊列。前半の800mは50秒3のミドルペース。
3コーナーを回るとショウナンナデシコがサルサディオーネに並び掛けていき,2頭が併走で直線に。すぐにショウナンナデシコが先頭に立つと,後は引き離す一方となって圧勝。ショウナンナデシコにはまったく抵抗できませんでしたが,ほかの馬の追撃は凌いだサルサディオーネが8馬身差で2着。直線入口で少し離れた3番手まで上がってきていたレーヌブランシュは,サルサディオーネとの差は詰めたものの追いつくまでには至らず1馬身差で3着。
優勝したショウナンナデシコはエンプレス杯からの連勝で重賞2勝目。ここはエンプレス杯の上位3頭が出走してきて,その3頭がほかに対して能力上位とみられました。そのときと同じ着順での決着となり,きわめて順当な結果に。圧勝になったのは,ショウナンナデシコがサルサディオーネさえ負かせば勝てるだろうというような内容の競馬をしたためで,おそらく騎手にそういう自信があったのだろうと推測されます。逆にいえば後ろからくるもっと強力な馬がいるとこういう競馬はしにくくなるので,ここまで差がつくということもなかったろうと思います。それでも今年のダートの牝馬戦線の中心となるのは間違いないでしょう。父はオルフェーヴル。母の父はダイワメジャー。従兄に2017年にシンザン記念を勝っている現役のキョウヘイ。
騎乗した吉田隼人騎手と管理している須貝尚介調教師はマリーンカップ初勝利。
スピノザが働くagereことを肯定し,働きを受けるpatiことを否定しているということは,スピノザがデカルトRené Descartesに変えて打ち立てた新たな道徳律が,能動的であることを推奨し,受動的であることを回避するように求めるものであったという点から明白です。働くとは能動actioを意味し,働きを受けるとは受動passioを意味するからです。そして現実的に人間が悲しみtristitiaを感じるということは,必然的にnecessarioその人間が働きを受けているということを示すので,この観点からもスピノザは悲しみを否定しているといえます。いわば道徳的な観点からも,スピノザは悲しみを原則的に否定するのです。
このようにスピノザは,人間の現実的本性actualis essentiaすなわちコナトゥスconatusという観点,および道徳的な観点というふたつの観点から,悲しみを原則的に否定します。そして良心の呵責conscientiae morsusが悲しみという感情affectusの一種である以上,それもまた原則的に否定されるということになります。ここには理解することがそれほど容易ではない部分も含まれているかもしれません。道徳的な観点からもスピノザは悲しみを否定するのですから,その悲しみの一種である良心の呵責は,スピノザによれば道徳的な観点からも否定されるということになっているからです。僕たちはイメージとしては良心の呵責を感じることを,道徳的なことと思ってしまう傾向があるのではないかと僕は思いますが,スピノザの主張では,良心の呵責を感じるということ自体は,道徳的であるとはいえず,むしろそれに反する,つまり非道徳的なことであるということになるのです。
ニーチェFriedrich Wilhelm Nietzscheはこの点については何もいっていませんし,『スピノザ〈触発の思考〉』でも何かがいわれているというわけではありません。ただ,良心の呵責がスピノザの哲学では原則的には非道徳的なことであるということは,スピノザの思想とニーチェの思想とを結びつけるひとつの要因にはなり得るでしょう。他面からいえば,確かにこの点においてはスピノザはニーチェの先達あるいは先駆者なのであって,ニーチェが指摘していることは間違っているわけではありません。良心の呵責を非道徳的なことのひとつとして数え上げるような思想は,そう多くはないであろうからです。
サルサディオーネが逃げて1馬身差でショウナンナデシコががっちりとマーク。3馬身差でレディバグとメモリーコウ。2馬身差でレーヌブランシュ。2馬身差でクールキャット。大きく離れてハピネスマインド。2馬身差でアイカプチーノ。大きく離れてグレートコマンダーとナラ。また大きく離れてネイバーアイランド,ハナウタマジリ,アウティミアーという,とても縦に長い隊列。前半の800mは50秒3のミドルペース。
3コーナーを回るとショウナンナデシコがサルサディオーネに並び掛けていき,2頭が併走で直線に。すぐにショウナンナデシコが先頭に立つと,後は引き離す一方となって圧勝。ショウナンナデシコにはまったく抵抗できませんでしたが,ほかの馬の追撃は凌いだサルサディオーネが8馬身差で2着。直線入口で少し離れた3番手まで上がってきていたレーヌブランシュは,サルサディオーネとの差は詰めたものの追いつくまでには至らず1馬身差で3着。
優勝したショウナンナデシコはエンプレス杯からの連勝で重賞2勝目。ここはエンプレス杯の上位3頭が出走してきて,その3頭がほかに対して能力上位とみられました。そのときと同じ着順での決着となり,きわめて順当な結果に。圧勝になったのは,ショウナンナデシコがサルサディオーネさえ負かせば勝てるだろうというような内容の競馬をしたためで,おそらく騎手にそういう自信があったのだろうと推測されます。逆にいえば後ろからくるもっと強力な馬がいるとこういう競馬はしにくくなるので,ここまで差がつくということもなかったろうと思います。それでも今年のダートの牝馬戦線の中心となるのは間違いないでしょう。父はオルフェーヴル。母の父はダイワメジャー。従兄に2017年にシンザン記念を勝っている現役のキョウヘイ。
騎乗した吉田隼人騎手と管理している須貝尚介調教師はマリーンカップ初勝利。
スピノザが働くagereことを肯定し,働きを受けるpatiことを否定しているということは,スピノザがデカルトRené Descartesに変えて打ち立てた新たな道徳律が,能動的であることを推奨し,受動的であることを回避するように求めるものであったという点から明白です。働くとは能動actioを意味し,働きを受けるとは受動passioを意味するからです。そして現実的に人間が悲しみtristitiaを感じるということは,必然的にnecessarioその人間が働きを受けているということを示すので,この観点からもスピノザは悲しみを否定しているといえます。いわば道徳的な観点からも,スピノザは悲しみを原則的に否定するのです。
このようにスピノザは,人間の現実的本性actualis essentiaすなわちコナトゥスconatusという観点,および道徳的な観点というふたつの観点から,悲しみを原則的に否定します。そして良心の呵責conscientiae morsusが悲しみという感情affectusの一種である以上,それもまた原則的に否定されるということになります。ここには理解することがそれほど容易ではない部分も含まれているかもしれません。道徳的な観点からもスピノザは悲しみを否定するのですから,その悲しみの一種である良心の呵責は,スピノザによれば道徳的な観点からも否定されるということになっているからです。僕たちはイメージとしては良心の呵責を感じることを,道徳的なことと思ってしまう傾向があるのではないかと僕は思いますが,スピノザの主張では,良心の呵責を感じるということ自体は,道徳的であるとはいえず,むしろそれに反する,つまり非道徳的なことであるということになるのです。
ニーチェFriedrich Wilhelm Nietzscheはこの点については何もいっていませんし,『スピノザ〈触発の思考〉』でも何かがいわれているというわけではありません。ただ,良心の呵責がスピノザの哲学では原則的には非道徳的なことであるということは,スピノザの思想とニーチェの思想とを結びつけるひとつの要因にはなり得るでしょう。他面からいえば,確かにこの点においてはスピノザはニーチェの先達あるいは先駆者なのであって,ニーチェが指摘していることは間違っているわけではありません。良心の呵責を非道徳的なことのひとつとして数え上げるような思想は,そう多くはないであろうからです。