1日の豊橋記念の決勝。並びは新山に稲川,川口‐岡本の中部,町田‐松本‐香川の瀬戸内で,山田と荒井は単騎。
松本がスタートを取って町田の前受け。4番手に新山,6番手に荒井,7番手に山田,8番手に川口で周回。残り3周のバックの出口から川口が上昇。ホームに戻って町田が突っ張ったので,川口は4番手の新山の外まで下げました。ここから内が新山‐稲川‐山田,外が川口‐岡本‐荒井で併走となって打鐘。この後のコーナーで新山が単独の4番手を確保しました。ホームを過ぎてから新山が発進。町田との車間を開けて待ち構えていた川口がバックで新山を牽制。新山はスタンド近くまで押圧されてしまい不発。内が開いたのでそこに突っ込んできたのが岡本と香川でしたが,これは戻った松本が封じました。直線で松本はさらに町田を差しにいきましたが,これは届かず,逃げ切った町田の優勝。松本が2着に入線しましたが,新山への走行妨害で失格。松本の外から伸びてきた稲川が1車輪差の2着に繰り上がり,稲川のさらに外から迫った荒井が半車輪差で3着。
優勝した広島の町田太我騎手は6月に取手のFⅠを優勝して以来の優勝。GⅢは2021年6月に国際自転車競技支援競輪を勝っていますが,記念競輪は初優勝。このレースは新山の脚力が断然上位。対して瀬戸内ラインは二段駆けもあり得るという並びで,作戦で対抗するという図式。松本が町田との車間を大きく開けて,番手から出るのではなく新山を牽制するという形になりました。この牽制が大きすぎたために失格となりましたが,これは松本がどの程度まで牽制をすればよいのかが分かっていなかったということだと思います。町田はそれで恵まれることになりましたが,後味としては悪いレースになってしまったように思います。
第二部定理七に依拠する限り,平行論を採用しようと同一説を採用しようと,スピノザの哲学の解釈に大きな間違いを生じさせるものではありません。それでも僕が同一説を斥けて平行論を採用するのは,形而上学的な理由によります。その基礎が第一部公理一です。この公理Axiomaでいわれているのは,自然Naturaのうちに存在するのは実体substantiaあるいは実体の属性attributumであるか,そうでなければ実体の変状substantiae affectioすなわち様態modiのどちらかであるということです。
この公理から,ある事物とほかの事物が区別されるなら,どのように区別されなければならないかということが分かります。すなわち第一部定理四にあるように,ふたつあるいは複数の事物は実体あるいは同じことですが属性の相違によって区別されるか,様態としての相違によって区別されるかのどちらかでなければなりません。実体ないしは属性と様態だけしか存在しないのですからこれは当然です。このとき,実体あるいは属性の相違によって区別されるのであればその区別distinguereは実在的区別といわれ,様態としての差異によって区別されるのであればその区別は様態的区別といわれるのが基本です。
このことから,第二部定理七でいわれている観念ideaともの,すなわち観念と観念対象ideatumは,実在的に区別されるということになります。観念は思惟の属性Cogitationis attributumの様態であって,観念対象は思惟以外の何らかの属性,たとえば延長の属性Extensionis attributumの様態であるというようにこの定理Propositioでは想定されているからです。このとき,観念と観念対象が区別されるというのは,それらが別のものであるがゆえに区別されるのです。これは,もしも区別することができないのであれば同じものでなければならないということから明白でしょう。よって,観念と観念対象は別のものでなければなりません。別のものであるのにそれを同一であるというのは不条理だと僕は考えます。
観念と観念対象は,原因causaと結果effectusの連結connexioと秩序ordoが一致します。この一致によってそれらは同一個体といわれます。しかし同一個体というのは同一物というのとは異なっているのだと僕は考えます。異なったものは同一個体ではあり得るけれども,同一物ではあり得ないというように僕は考えるからです。
松本がスタートを取って町田の前受け。4番手に新山,6番手に荒井,7番手に山田,8番手に川口で周回。残り3周のバックの出口から川口が上昇。ホームに戻って町田が突っ張ったので,川口は4番手の新山の外まで下げました。ここから内が新山‐稲川‐山田,外が川口‐岡本‐荒井で併走となって打鐘。この後のコーナーで新山が単独の4番手を確保しました。ホームを過ぎてから新山が発進。町田との車間を開けて待ち構えていた川口がバックで新山を牽制。新山はスタンド近くまで押圧されてしまい不発。内が開いたのでそこに突っ込んできたのが岡本と香川でしたが,これは戻った松本が封じました。直線で松本はさらに町田を差しにいきましたが,これは届かず,逃げ切った町田の優勝。松本が2着に入線しましたが,新山への走行妨害で失格。松本の外から伸びてきた稲川が1車輪差の2着に繰り上がり,稲川のさらに外から迫った荒井が半車輪差で3着。
優勝した広島の町田太我騎手は6月に取手のFⅠを優勝して以来の優勝。GⅢは2021年6月に国際自転車競技支援競輪を勝っていますが,記念競輪は初優勝。このレースは新山の脚力が断然上位。対して瀬戸内ラインは二段駆けもあり得るという並びで,作戦で対抗するという図式。松本が町田との車間を大きく開けて,番手から出るのではなく新山を牽制するという形になりました。この牽制が大きすぎたために失格となりましたが,これは松本がどの程度まで牽制をすればよいのかが分かっていなかったということだと思います。町田はそれで恵まれることになりましたが,後味としては悪いレースになってしまったように思います。
第二部定理七に依拠する限り,平行論を採用しようと同一説を採用しようと,スピノザの哲学の解釈に大きな間違いを生じさせるものではありません。それでも僕が同一説を斥けて平行論を採用するのは,形而上学的な理由によります。その基礎が第一部公理一です。この公理Axiomaでいわれているのは,自然Naturaのうちに存在するのは実体substantiaあるいは実体の属性attributumであるか,そうでなければ実体の変状substantiae affectioすなわち様態modiのどちらかであるということです。
この公理から,ある事物とほかの事物が区別されるなら,どのように区別されなければならないかということが分かります。すなわち第一部定理四にあるように,ふたつあるいは複数の事物は実体あるいは同じことですが属性の相違によって区別されるか,様態としての相違によって区別されるかのどちらかでなければなりません。実体ないしは属性と様態だけしか存在しないのですからこれは当然です。このとき,実体あるいは属性の相違によって区別されるのであればその区別distinguereは実在的区別といわれ,様態としての差異によって区別されるのであればその区別は様態的区別といわれるのが基本です。
このことから,第二部定理七でいわれている観念ideaともの,すなわち観念と観念対象ideatumは,実在的に区別されるということになります。観念は思惟の属性Cogitationis attributumの様態であって,観念対象は思惟以外の何らかの属性,たとえば延長の属性Extensionis attributumの様態であるというようにこの定理Propositioでは想定されているからです。このとき,観念と観念対象が区別されるというのは,それらが別のものであるがゆえに区別されるのです。これは,もしも区別することができないのであれば同じものでなければならないということから明白でしょう。よって,観念と観念対象は別のものでなければなりません。別のものであるのにそれを同一であるというのは不条理だと僕は考えます。
観念と観念対象は,原因causaと結果effectusの連結connexioと秩序ordoが一致します。この一致によってそれらは同一個体といわれます。しかし同一個体というのは同一物というのとは異なっているのだと僕は考えます。異なったものは同一個体ではあり得るけれども,同一物ではあり得ないというように僕は考えるからです。