悪の確知に関してはまだ考えなければならないことが残されているのですが,少なくともそれが十全な認識cognitioであり得るということは分かりました。なので第四部序言でスピノザが人間の本性の型と関連付けて善bonumと悪malumについて言及しているとき,それは十全な観念idea adaequataである,あるいは十全な観念であり得るというように解釈して,さらにスピノザが何をいっているのかをみていきます。
スピノザはこの後で,この人間の本性natura humanaの型を,善悪だけでなく完全性perfectioとも関連付けます。そこでいわれているのは,人間がこの本性の型により多く近づく限りにおいてその人間のことをより完全といい,より少なく近づく限りにおいてその人間のことをより不完全というということです。ここで注意しておかなければならないのは,人間がより不完全といわれるのは,人間の本性の型により少なく近づく限りにおいてなのであって,人間の本性の型から遠ざかる限りにおいてではないということです。ではなぜそのようにいわれなければならないのかといえば,現実的に存在する人間がより大なる完全性からより小なる完全性に移行するとか,より小なる完全性からより大なる完全性に移行するといわれるとき,これは前者は第三部諸感情の定義三により悲しみtristitiaを,後者は第三部諸感情の定義二により喜びlaetitiaを意味するのですが,そうした喜びも悲しみも,ある本性ないしは形相formaから別の本性ないしは形相に変化するという意味ではないからです。たとえば馬の本性が人間の本性ないしは形相に変化するということは,馬がゴキブリの本性ないしは形相に変化するのと同じ意味で,馬が馬ではなくなるということを意味するのであって,それでは馬の本性の型により多く近づいているともより少なく近づいているともいえません。つまり馬がより完全であるともより不完全であるともいえないのです。
したがって,ここで人間の本性の型により多く近づくとかより少なく近づくとかいわれているのは,近づく人間の本性の力potentiaについてそういわれているのです。つまりその人間の力が増大しているか減少しているかがいわれているのです。いい換えれば事物の完全性,すなわち第二部定義六により実在性realitasとは,力という観点からみられた事物の本性なのです。
政府が市民Civesに対して優っている度合いに相当するだけの権利juraしか有し得ないのは,僕の考えでは当然であるように思えます。このことは,乳児が泣くことが乳児の自然権jus naturaeに属するということから考えれば明白でしょう。どのような政府であっても,乳児が泣かないようにする権利を有するということはできないからです。他面からいえば,乳児に対して泣かないように要求するということは,乳児に対して不可能なことを要求しているに等しいからです。そしてこのようなことが,諸個人の自然権に対して適用されるのです。これは僕がいっている受動的自由に関連することですが,ある種の受動passioに対して政府が市民に対してその自由libertasを制限するということは,実際には政府が市民に対して不可能なことを要求しているに等しいのです。ですから仮に政府が市民に対してそうした要求をしているとしても,市民はその自然権を行使することになるでしょう。
したがって政府が市民に対して力potentiaを発揮するのは,市民の自然権が拡充するような方向である必要があるのです。そしてそのようにすることで,国家Imperiumの平和paxも道徳心も保たれまた発展していくことになるのです。スピノザは『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』の冒頭で,哲学する自由libertas philosophandiを認めても道徳心や国の平和は損なわれず,むしろそれを制限したときにそれは損なわれるのだという意味のことをいっていますが,それはまさにこの哲学する自由が市民の自然権に属するからです。そしてスピノザのこうした哲学的な自然権を考えることが,具体的なスピノザの政治論を導くことになるであろうと僕は考えます。
ここまでに示してきた例でいえば,養育者が乳児を養育することは養育者の自然権に該当します。そしてより多くの人が協力して乳児を養育することで,その自然権というのは拡充します。政府が乳児の養育に対して何らかの支援をする,つまり社会福祉の政策としてそれを実行するのであれば,それは養育者の自然権が拡充されるがゆえにそうした政策が実行されるべきである,あるいはそうした政策が実行されるのが好ましいとされなければなりません。単にそれが政府にとって有益であるという観点からなされてはならないのです。
スピノザはこの後で,この人間の本性natura humanaの型を,善悪だけでなく完全性perfectioとも関連付けます。そこでいわれているのは,人間がこの本性の型により多く近づく限りにおいてその人間のことをより完全といい,より少なく近づく限りにおいてその人間のことをより不完全というということです。ここで注意しておかなければならないのは,人間がより不完全といわれるのは,人間の本性の型により少なく近づく限りにおいてなのであって,人間の本性の型から遠ざかる限りにおいてではないということです。ではなぜそのようにいわれなければならないのかといえば,現実的に存在する人間がより大なる完全性からより小なる完全性に移行するとか,より小なる完全性からより大なる完全性に移行するといわれるとき,これは前者は第三部諸感情の定義三により悲しみtristitiaを,後者は第三部諸感情の定義二により喜びlaetitiaを意味するのですが,そうした喜びも悲しみも,ある本性ないしは形相formaから別の本性ないしは形相に変化するという意味ではないからです。たとえば馬の本性が人間の本性ないしは形相に変化するということは,馬がゴキブリの本性ないしは形相に変化するのと同じ意味で,馬が馬ではなくなるということを意味するのであって,それでは馬の本性の型により多く近づいているともより少なく近づいているともいえません。つまり馬がより完全であるともより不完全であるともいえないのです。
したがって,ここで人間の本性の型により多く近づくとかより少なく近づくとかいわれているのは,近づく人間の本性の力potentiaについてそういわれているのです。つまりその人間の力が増大しているか減少しているかがいわれているのです。いい換えれば事物の完全性,すなわち第二部定義六により実在性realitasとは,力という観点からみられた事物の本性なのです。
政府が市民Civesに対して優っている度合いに相当するだけの権利juraしか有し得ないのは,僕の考えでは当然であるように思えます。このことは,乳児が泣くことが乳児の自然権jus naturaeに属するということから考えれば明白でしょう。どのような政府であっても,乳児が泣かないようにする権利を有するということはできないからです。他面からいえば,乳児に対して泣かないように要求するということは,乳児に対して不可能なことを要求しているに等しいからです。そしてこのようなことが,諸個人の自然権に対して適用されるのです。これは僕がいっている受動的自由に関連することですが,ある種の受動passioに対して政府が市民に対してその自由libertasを制限するということは,実際には政府が市民に対して不可能なことを要求しているに等しいのです。ですから仮に政府が市民に対してそうした要求をしているとしても,市民はその自然権を行使することになるでしょう。
したがって政府が市民に対して力potentiaを発揮するのは,市民の自然権が拡充するような方向である必要があるのです。そしてそのようにすることで,国家Imperiumの平和paxも道徳心も保たれまた発展していくことになるのです。スピノザは『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』の冒頭で,哲学する自由libertas philosophandiを認めても道徳心や国の平和は損なわれず,むしろそれを制限したときにそれは損なわれるのだという意味のことをいっていますが,それはまさにこの哲学する自由が市民の自然権に属するからです。そしてスピノザのこうした哲学的な自然権を考えることが,具体的なスピノザの政治論を導くことになるであろうと僕は考えます。
ここまでに示してきた例でいえば,養育者が乳児を養育することは養育者の自然権に該当します。そしてより多くの人が協力して乳児を養育することで,その自然権というのは拡充します。政府が乳児の養育に対して何らかの支援をする,つまり社会福祉の政策としてそれを実行するのであれば,それは養育者の自然権が拡充されるがゆえにそうした政策が実行されるべきである,あるいはそうした政策が実行されるのが好ましいとされなければなりません。単にそれが政府にとって有益であるという観点からなされてはならないのです。